自己卑下と謙虚を取り違えてはいけない
<2018.1.14>
やたらと自分を卑下する人と、出会うことがある。
「私なんか全然ダメ」とか、恋愛が絡むと、「私なんかに好かれたらあの人は困るでしょう」とか。一見謙虚なのかなと思うけれど、なんとなくすっきりしないことがある。
私も自己評価が低い人間なので、「私なんて全然ダメで」と言う言葉を使ってしまうことがある。私の場合は、できないことを最初に知ってもらいたいという「できないことの自覚があるよ」アピールで使っていたと思う。自分がなるべく傷つかないための予防線として、不安が漏れ出す形で口から出ていた。
私の自己卑下はこんな感じだが、冒頭で書いた、やたらと自分を卑下する人は、少し違っている。
その人が得意だったり優れていると思われる分野で、自己卑下が始まるのだ。もちろん事実とは違っているので、「そんなことないよ」とか「あなたは十分に出来るから自信を持っていいよ」という言葉を返すことになるのだが、どうも釈然としない。
「そんなことないよ」と、他人から肯定してもらいたいだけで、実はうっすらと自慢があるような気がするのだ。
「全然ダメ」と言いながら、本心は別にあるような感じ。一見謙虚な風を装ってはいるけれど。
本人が自覚しているかどうかはまた別として。
結構そういうコミニケーションの取り方が苦手だと思ってきた。だけど、その人も私も、自己卑下という点で大差はないんじゃないかと思うようになった。優劣のどちら側に自分を置いているというだけで、多分同じだ。
どっちも優劣にこだわりすぎている。「私なんかダメ」の言葉を聞く第三者を困惑させたり、気を遣わせるという点で、変わりがない。
これが、自虐ネタとして笑える形として昇華されているならまた話は別だと思う。そこまで消化されていれば、第三者も「なにそれ、ウケる」と、笑い飛ばすことができる。ただユーモアのセンスのない私は、なかなかその段階までは行けないし、やりなれないと難しい。
だから、人に気を遣わせかねない自己卑下は、なるべくしないようにしている。
本当に謙虚な人間は、多分自分ができる事はできることとして、事実を淡々と受け止めていると思う。自分が人より優れていても、そこにこだわりや執着がないから、奢りがない。つまり客観性があるのだと思う。
「私が私が」という我欲から離れているということでもある。
自己卑下と謙虚、一見どちらも似ているように思うけれど、全然それは別物で、受け取る側は、結構それを的確に見分けていると思う。