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「認めてほしい」「愛してほしい」あくなき承認欲求に振り回されないために

「認めてほしい」「愛してほしい」あくなき承認欲求に振り回されないために

<2017.11.27>

以前に、「承認のコップ」のことを書いたことがある。
(「自己承認と他者承認の二つを満たさなければ「承認のコップ」は満たされない」)

人の心の中には承認のコップというものがあって、このコップが満たされる状態が幸せと言うことだが、このコップが満たされている人はほとんどいない。この水の中には、自己承認と他者承認の2種類の水が入っている。その水をバランスよく、少しずつでも満たしていきたいと、そんなことを書いた。

このときから、考え方が少し変わった。

この頃、聞きかじったアドラーのいう「他者貢献感」について、いろいろ考えていた頃だったと思う。
人から必要とされたい、人から認められたい、人から愛されたいというのは、私たちにとってとても大切なことだ。他者に貢献することで、自分の承認欲求を満たす、それはごく自然なことのように思えた。

その後アドラーの『嫌われる勇気』を読んだが、なんとなくしっくりこない感じがして、最後まで読みきれずにいる。きちんと最後まで読んだら、このことについて書くかもしれない。

今思うことは、自分が自分を認めなければ、本当の意味で幸せになることができないのではないかということだ。他人が賞賛してくれたり、認めてくれたり、更には誰かが愛してくれることが、一時的には心を満たしてくれることはあるだろう。

また、比較的人より何か秀でたものがある人は、他者が自分を認めてくれているという意識を持ちやすいかもしれない。けれど優劣の世界に生きている限り、肉体は死に向かって歩み続けていくし、衰えやすい身体を持って、ずっと勝ち続けることなんてできはしない。

一時的な満足感は長くは続かない。

全ての人がそうでは無いけれど、恋人ができて、最初の頃は幸せそうにしていた人が、いつしか、時間が経つにつれて、相手の不満ばかりを口にしている場面に遭遇することがある。はじめの頃は満ち足りたと思えた関係も、やがて、尊重してもらえない、大事にされない、気に留めてもらえない、不当に扱われていると、変化してしまっているのだ。

そしてたやすく、愛は憎しみに変わる。満たしてくれて与えてくれるのが当たり前だったはずなのに、それが得られないと、腹を立てるのだ与えられることばかりに気持ちがいってしまうのは、それは、エゴではないのだろうか。

そのことを非難しているわけではない。私もかつてそうだったし、今もそこから完全に抜け出ているわけでもない。
だから、そんなふうに感じてしまうことを、非難ではなく哀しいと思ってしまう。

なぜ不満ばかりになってしまうのかというと、そこには「足りない」「満たしてもらえない」という気持ちが隠れているからだ。
つまり「欠乏感」。自分は十分ではないと言う感覚が、根底にある。

そんな風に、欠乏感だけで覆われてしまった心を、哀しく思うのだ。

でも、足りていないと思うことも幻想なのかもしれない。
もしかしたら、持っているのに持っていないと思い込んでいるだけなのかもしれない。

自分の輝きで自分を満たすことができれば、あくなき承認欲求から解放され、エゴを超えて本当の意味で、人と関わることができるのかもしれない。それを、「目覚め」と呼ぶのではないだろうか。





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