辛いからこそ、その傷を繰り返してしまうことがある
<2018.3.21>
あるとき、私にとって辛い別れがあった。
自分の一部のように大切にしていた人だった。
当たり前にいるはずだったその人が遠く離れたとき、自分がもぎ取られてしまうような悲しみがあった。
それでも、それがその人の希望だったから、その選択を受け入れて離れた。
それが最良の選択だと思考は納得したはずだった。でも、感情はそうではなくて、その人のことを思い出すたび、涙が零れた。
それからまもなくのことだった。
また別のある人との別れがあった。離れた人とは、全く別の人物。異性ではない。仮にこの人のことをCさんと呼ぶ。Cさんとの別れは、私が選択したものだ。
離れる間際、心理的な葛藤を実感する出来事がいくつも起きた。
それまで気づいていなかった、私が大切にしているものとCさんが大切にしていることが、真っ向からぶつかってしまうことを次々体験することになって、一緒にはいられないということに気づいた。
そうして、離れた。
Cさんとの別れは自分が選択したとはいえ、二つの別れが続いたことは、かなり辛いことで、しばらく体調もすぐれない日々が続いた。
今、そのときのことを思うと、あまりに一つ目の別れの体験が強すぎた為に、二つ目の別れを引き寄せてしまった気がしている。
結果的にそうなったが、Cさんとの別れを望んでいたわけではない。
けれど、あのタイミングで価値観や生きる方向性が全く違うことを体験することになったのは、私が無意識に招いたことではなかっただろうか。
あのとき気づかなくても、Cさんとは多分いずれ別れがやってきたと思う。
大事にしている部分が相いれないのは、結構致命的だ。
ただ、一つ目の別れのすぐ後に、Cさんと離れなくてはいけなかったのは、一つ目の別れが、辛すぎたせいだと思う。
あまりにも体験が強烈すぎるとき、人は、無意識にそれを繰り返してしまうことがある。
そこにフォーカスしすぎるあまりに、その体験を引き寄せてしまう。
それは、傷だ。
傷が深すぎるとき、人はその傷を自ら再体験してしまう。望んでいないにも関わらず。もちろん、いつもそうだというわけではないが、そういうことは多いのではないだろうか。
例えば、父親に虐げられた子供が、大人の女性になってパートナーを選ぶとき、父親と同じような性格の男性をいつも選んでしまう、そういうことがある。
一緒にいて穏やかな幸せを感じられる人には魅力を感じず、自分をないがしろにするような人物に惹かれてしまう。そうして、父親のときと同じような辛さを追体験する。
傷があるからこそ、その傷を繰り返してしまう。
生々しいからこそ、その体験を繰り返さなくてはいられない。フラットではいられない。
それは不幸なことなのだけど、多分そういうメカニズムがある。
私の場合は傷がそこまで深くない為に、再体験は一度で済んだ。
ただ、傷が深すぎるために、傷を何度も繰り返してしまう人がいる。
もし、人間関係において、その体験をしたくないのに繰り返してしまうということを悩んでいる人がいるなら、繰り返さなくてはいられない傷があることを疑ってみてはどうだろうか。
その傷に気づいて光を当てることが、不幸なループから抜け出す一つの道なのだと思う。