自分が他者より劣っていることに、アイデンティティーを持ってしまう人
<2018.1.21>
このブログのサイト名は『生きづらい。それでも生きていく』だ。
このブログを開設した頃の気持ちを、そのままサイト名にした。
当時、人と関わり方の下手さ加減、人が簡単にできることができないこと、普通ではないということにコンプレックスを感じていて、それはひどく苦しいことだった。「生きづらい」ということが前提にあって、それでも生きて行こうよという決意表明みたいな感じで、つけた名前だった。
半分後ろ向きで、半分前向き、そんなサイト名だ。
当時のことを思うと、「生きづらい自分」というのがまずあって、「無能な人間」「無価値な人間」、そういうところにアイデンティティーを持っていた。
アイデンティティー、自己同一性、何に自分を同一化するかということ。「あなたは何者か?」と聞かれて、体裁を考えずに正直に答えるとしたら、あなたは何と答えるだろう?
学歴、所属している組織、属性、役割、〇〇を所有している私、そんな風に答えるかもしれない。または、スタイルがいい、美人、髪がキレイといった容姿や外から見えるところを、挙げるかもしれない。それとも、「優しい人間」「人のことを一番に考えられる人間」「個性的な人間」「誰より有能な人間」「穏やかで平和な人間」と言ったように、自分の性格から自分を定義づけるかもしれない。
自分が価値あると思える資質を自分が持っていると考えられる人は、幸せだと思う。
だけど、自分が他者より劣っていることに、アイデンティティーを持ってしまう人もいる。そこに独自性があるから。そういう人は、生きづらい。
それはもしかして思い違いかもしれなくて、本当は劣っていないにも関わらず、今まで生きてきた経験や価値観から、それを信じて込まされている場合もあるだろう。
また本当に、人より何かで劣っている場合もあるだろう。
HPS、発達障害、コミュ障、仕事ができない、能力がない、普通じゃない、動作が遅い、内向的…事実として、そういう性質や性格があるのかもしれない。そこにもちろん、苦しみがある。苦しいから、そこに必要以上に自分を同一化してしまう。
自分は、足りない人間だと規定してしまう。
でも、必要以上にそこにアイデンティティーを持ってしまうと、その狭いストーリーの中で生きなくてはいけなくなるように思う。
事実としてコンプレックスを感じることがあっても、自分が自分に対して、「価値のない人間」とジャッジを下さなければ、それはそういう事実があるというだけだ。
何かで劣っていたとしても、それを補うくらいの魅力を備えていることだってある。
例えば、足がものすごい速い人がいて、みんながそれをうらやましいと思っていたとしよう。でも、当人は足が速いことに価値を見出していなくて、歌が下手なことにコンプレックスを持っていたとする。歌がうまいことがこの世で一番価値あることだと信じて、他は取るに足らないことだと思い込んでいたら、足が速いという魅力は、見えなくなってしまう。
他の人が、どんなに足が速いことをうらやんでいたとしても、自分が価値があると思っている歌以外の事柄は、意味のないことに思えることだろう。
だけど、淡々と事実を受け入れて客観的に自分を見ることができれば、自分のその他の魅力やできることに、気づけるはずだ。
だから、自分が他者より劣っていることに、アイデンティティーを持たない方がいい。
アイデンティティーを持つなら、自分が得意なこと、秀でたことに自分を重ねられる方が、多分幸せだ。
でも、実は、そういうことも移ろいやすい。
自分が優れていると思っていても、それよりもっと上の人が現れれば、それは劣等感に変わってしまう。私たちはいつか死ぬ運命にあるから、自分だと思っていたものは、いつか剥ぎ取られていく。ずっと持っていることはできない。物事は変わっていく。永遠はない。
それに、どんなにほしいと努力しても、ときに、叶わないこともある。
そういうことをよくよく考えてみたとき、自分がどういう人間かということに、あまりこだわりすぎない方が、心が静かでいられるのではないかと思う。私は、こういう人間だというストーリーに入り込まない方がいい。入り込みすぎると、自分が頭の中で作り上げたストーリーに沿って、生きなくてはいけなくなるから。
今、ブログのサイト名をつけるなら、『生きづらい。それでも生きていく』は、多分選ばない。
多分、私は私で、それだけでいいのだ。自分が頭で考えるより、自分はもっと広大だ。みんなそうなのだ。見えなくなってしまっているだけで。
今、ただここに存在していることが、アイデンティティーなのだと思う。