罰のように生きなくていい
<2022.7.2>
罰のように生きている人を見かけることがある。
悪いことをした私は幸せになってはいけないと、楽しみから目をそらして、自分を責め続けている人たち。幸せにならないような状況を自ら作り出し、自分を罰し続ける。
「そんなに自分を責めなくてもいいんだよ」と言ってみたりするけど、私の声が響くことはない。それは、その人自身が自分を許せないでいるからだ。
他者と関りを持つということは、傷つけたり傷つけられたりすることを、含んだものだと思う。
関係が近いほど、家族や恋人といった身近な人であればあるほど、考え方の違いもあらわになるし、不快なものも出てきてしまう。
悪気があって傷つけてしまうこともあるし、悪気がなくても、タイミングや甘え、価値観の相違、想像力の欠如、色んなことが原因で傷つけてしまうこともある。
謝って許してもらえることもあるし、関係が壊れてしまうこともある。
関係が修復不可能なくらいこじれたとき、後悔から自罰的になってしまう人がいる。
自分を罰して、相手の心の傷との釣り合いを取ろうとしているのかもしれない。贖罪として、自分の幸せを犠牲にしているのかもしれない。
でも、不幸せそうに生きている人に接するとき、そんな風に自分を罰して生きなくていいんじゃないだろうかと思う。自分で自分をいじめるのをやめて、幸せを求めてもいいのではないだろうか。
それは、自分は悪くないと開き直ることではないし、悔いていないということでもない。
確かに過去の行為は、変えられない。
でも、人は変わっていく。関係性も永続的ではない。常に変化する。
結局は、今の自分を見てもらうしかない。
後悔しているなら、行動を改めた自分を見てもらうしかない。
今までと違う自分で相手に接していると、過去は変えられなくても、過去の出来事の印象は変化していく。
常に関係性も更新されているから。
それによって、相手の気持ちが軟化したり、許してもらえることもある。
時間の経過や相手が色々な経験を積むことで、気持ちが変化することもある。
そこに過大な期待をすると辛いだけだけど、緩やかに変化を待ってもいいんじゃないだろうか。
待っている間、自分を罰して、鬱々とした気持ちでいる必要はない。
鬱々とした気持ちで生きているとき、エネルギーは枯渇してくるし、気持ち的な余裕もなくなってくる。
余裕がなくなると、感情的になったり、関係がこじれたきっかけになったことをまた繰り返す。
少しも変わっていないことが露呈してしまう。そして、相手をもっと傷つけてしまう。悪循環だ。
そうならないためにも、自分の機嫌を取ることは大事だと思う。少なくても鬱々とした気持ちで生きてはいけないんじゃないだろうか。
相手に優しくするためにも、自分の気持ちが落ちすぎないようにする。
自分が心地よく暮らせるかを決めるのは、結局は自分だと思う。
起きてくる出来事は選べないことが多いけれど、そこに幸せを見るか不幸を見るかは自分次第だと思うから。
楽しみを見出すことで、相手のことだけに気持ちがいかないようにする。執着しない。
そんな風に、時間が経つのに任せていると、関係がまた復活することもある。
恋人と別れてしまうなどで、変わった自分を見てもらうことも、関係の復活も望めないこともある。
そういうときも、自分の機嫌を取った方がいい。そして、気持ちの余裕があるなら、少しだけ誰かに優しくする。
優しくされた誰かも、他の誰かに優しくしてくれるかもしれない。
まわりまわって、別れた相手も、誰かに優しくしてもらえるのかもしれない。
もう直接、相手に優しくすることはできない。
だけど、ほんの少しだけ、優しくなった世界に生きてもらうことができる。
実際にはそんな風にならなくても、そう思えることは、希望だ。
だから、もう自分を罰して生きなくてもいい。