「自分を好きにならなくては」と考えるのが苦しいなら、それを一旦忘れてもいい
<2018.10.3>
前回、「人に防衛的である限り温かな関係は築けないのだろうか」ということに対して、防衛的であることが必ずしも悪いことではなくて、相手との関係性やシーンによって、防衛的にふるまうかどうかを自分が選べた方がいいということを書きました。(「人に防衛的である限り温かな関係は築けないのだろうか」)
自分の人生を歩んでいくのは自分なので、自分が楽に生きられる方法を取り入れた方が人生はスムーズに流れていきます。
今回は、自分が楽に生きられるかどうかの鍵を握る、自己受容について書いてみたいと思います。
私は長らく自分のことが嫌いでした。それは現実の自分がこうであってほしいという自分の姿から、かけ離れていたからだったと思います。それが許せなかった。今思えば、自分への期待値が高かった。
今も自分のことが好きかと聞かれたら、好きではないけれど、自分を好きになれないことを許せるようにはなったと答えると思います。
安定したメンタルの為にも、ある程度の自尊感情や自己肯定感があった方が生きやすいと思います。それを簡単に「自分を好き」という言葉に置き換えて使ってしまいますが、その意味を取り違えてしまうと、却って苦しくなることがあります。
「自分を好き」というのも、その度合いにはグラデーションがあるのに、自分が好きで好きでたまらない人の「自分を好き」を、モデルにしてしまうことがあるのですね。
そして、頑張ってそこに近づこうとするのですが、実は自分を嫌いなわけですから、そんな風にはなれない。だから、自分を好きになれない自分をより一層嫌ってしまう。
私も以前は、強迫観念的に、自分を好きにならないといけないと思っていた時期があって、それが逆に自分を縛っていたなぁと思うのです。
自分を好きにならなくては幸せになれない、…そういう極端な思考に陥っていました。
「好きになる」というより、ありのままの自分を認める、どうしようもない自分を認める程度のことでいいと気づいたのは、ずっと後になってからです。
「自分を好きにならなくてはならない」と考えることで苦しくなるなら、それを一旦忘れてもいいのではないかと思います。
野に咲く花の生は、シンプルです。
自分を縛る思考がありません。ただ、花を咲かせ、今その瞬間だけに生きています。
綺麗に咲かなくてはならないとか、他の花と比べることもありません。その一瞬に生きているからこそ、花は美しいのだと思います。
花は、今この瞬間に生きることの大切さを教えてくれます。
では花にはなれなくとも、花のようにシンプルに生きるのは、どうすればいいでしょうか。
肉体の感覚だけが今この瞬間に引き戻してくれるものと、教えてくれた人がいました。
それを知って、思考するのをやめて、身体の感覚に集中するということをときどきやっています。
瑞々しいフルーツを舌先で味わう。
好きな小説の一節を声に出して朗読する。
シャワーを浴びるときには、水の飛沫が肌に当たる感触を確かめる。
自分の身体のあちこちに直に触れてみる。
土の感触を足裏に感じながら歩く。
好きな香りのボディクリームを身体に塗る。
犬や猫の毛並みに沿って、優しく撫でてあげる。
挽きたてのコーヒーの香りをかぐ。
洗いたてのシーツの上に横たわる。
好きな音楽のリズムに乗って体を動かしてみる。
瞑想して、深い深い息を感じる。
そんな風に、五感を使って、細部を味わっていくのです。
身体の感覚に集中しているとき、過去も未来もなくなって、ただ「今」だけが在ります。
自分の身体が感じられて、心地の良いものなら何でもいいと思います。
そうやって、今にいる時間を一日のうち数分でも作ってあげると、極端な思考から自由になっていきます。
自分が自分を好きかどうかということを、今はあまり考えなくなりました。
コンプレックスを感じることがあると、「どうにかしなくては」という感覚が戻ってきますが、それも、ほっておけばまた去っていきます。
ダメな自分をそのダメなままほっておくというのも、自己受容の一つ形だと思うのです。
ダメというのも自分の思い込みということもありますが。
ブログや生きづらさに投稿下さった方に向けて、「自分を好きになって自分に優しくしてあげてください」と書いてしまいますが、こうして改めて記事に書くと、私が言う「自分を好きになる」は、ずいぶん濃度の薄い「好き」なのだと気づきます。
その程度の「好き」で十分なのではないかと思っています。
それでも、こわばった心は、少しずつやわらかく緩んでいきます。