断るということは、自分を守ることでもある
<2018.5.29>
気の進まないこと、というより大嫌いなことを強引に誘われた。
人からの誘いや依頼を断るのは勇気がいることだが、誘ってきた人は目上の人。余計に断りにくい。だけど、ここで断り切れずに引き受ければ、自分が苦しくなるのは目に見えている。
やんわりノーを言うが、相手は納得しない。更にしつこく食い下がってきたので、少し強めに断るなりゆきになってしまった。おとなしい私がそんな風に強気に出るとは思っていなかったであろう相手は、少し面食らっていたようだ。
少し前の自分なら、失礼だったかなとか、大人げなかったな、嫌われたかもしれない、などと罪悪感にとらわれていただろう。
それ以前に、断り切れずに、強引に誘ってくる相手に山ほどの不満を抱えてしまったことだろう。
気の進まないことを「それが嫌い」と意思表示をしないで引き受けると、どういうことが起きるかというと、相手はこちらが嫌だということがわからないので、また同じような誘いをかけてくるということだ。
その度に我慢をしなくてはいけなくなる。そして限界まで我慢を続けたあげく、我慢のしずぎて鬱状態に陥ったり、我慢しきれずに爆発してしまったりする。
以前の私も断れない人で、ぎりぎりまで我慢して、鬱のようになった。
相手のことを思いやるのは大事なことだ。だけど、断らないことと断ることとの境目は、見極めなくてはいけない。本当に嫌なことも引き受けて、人の為だけに生きることは、自分をないがしろにしてしまうのと同じことだ。
断り下手の人がなぜ断れないかというと、断る自分には価値がないと自分で決めつけているからだろう。
誰かのために生きることでしか、自分の価値を認められない。それは、とても不幸なことだ。嫌われないために自分を差し出さなくてはいけない生き方は、とても苦しい。
私も前は嫌われたくなくて、他人を優先してきた。だけど、断ることは、単に断るということでしかないはずだ。相手をないがしろにしているわけではないし、断ったからと言って、相手が嫌ってくるかはわからない。
というか、断ったからと言って、それが気に入らないという相手なら、むしろ嫌ってもらった方がいいのではないか。
関わらずに済むのなら、関わってお互い余計な労力をかけたり不快な思いをしなくて済む。
以前の自分は人との間に波風を立てたくなくて、自分がどういう人間かを表明してこなかった。
嫌いなことも好きな振りをして、それが大人の対応と思ってきた。でも自分が何か好きで何が嫌いか、どこまでを引きうけてどこまでを引き受けないかを、外に出すのは大事なこと。
それでも私の断り方は下手くそで、やっぱりコミュ障だった。いつまでたってもうまくならない。だけど、少なくとも、私がそれを望んでいないということは伝わったはず。
ノーを言うのが難しい自分がノーと言えたのだから、今は十分だ。
そして、罪悪感の代わりに「ちゃんと断れた」という高揚感が出てきたことに驚く。
結果として、ときには強く出るという選択肢もあるのだと気づいた。
きちんと断るということは、自分を守るということでもある。嫌われない為に自分を殺して生きるより、下手でも自分の主張を伝えられた方が健全だ。少しずつでもいいから自分を主張できると、生きやすくなる。
ただね、相手を不快にさせないよう、もう少し上手な断り方は考えたいとは思う。