あなたが感じている無価値感は本当に必要なもの?
<2018.3.24>
自分が無能だというに思い悩む人は多い。私も少し前までそう思っていた。
今はあまりそんな風には思っていない。
それは、実は自分が有能だったことに突然気づいたということでは全然なくて、二元思考以外の考え方があることに気づいたからだ。
それまでは「いい、悪い」とか、「正しい、間違っている」、「効率的、非効率」、「優れている、劣っている」、そんな風に、物事を二分する視点で捉えていた。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクション」というのは、アインシュタインの有名な言葉だが、自分が常識と思っていることも見方を変えれば、ただの偏った考えに過ぎないということがある。
私が18歳までに身に着けた考えに、「人より優れている方がいい」というものがあった。それに照らし合わせると、人より秀でたものがない自分は価値がないということになる。
その考えを身に着けたのは、母親の影響が大きい。
「人より優れた人でいなさい」と母親が教えたのは、私が世間を渡りやすくする為の親心だったと思う。だけどその考えは、ある人にとっては有益だったかもしれないが、私にとってはそうではなかった。
それは、呪縛のように私を縛って、私を生きづらくした。いつも自分に×をつけずにはいられなかった。
あるとき、今まで自分が持っていた二元思考に疑問を持った。
二元思考という言葉も知らなくて、「人は皆、それぞれ違っている。そこには優劣はないんじゃないか。単に、ただ違っているだけではないか」とふと思ったのだ。
それをすぐに信じられたわけではない。
ただ、別の見方があることに一度気が付くと、そういう考え方が目に付きやすくなった。
「非二元論」とか、「ワンネス」、「ノンデュアリティ」「世界は分離していないて、ひとつのもの」というような考え方だ。
全てがひとつの世界ならば、そこで優劣を競うことに意味なんかないのではないだろうか。今はそう思っている。
思考や感情、身体や資質、観念、そういう諸々のことを含めて、たまたま私はそう表現されていて、他の人もそれぞれそう表現されているだけのこと。
それはたまたま偶然なのか、宇宙の意思とかそういうことなのかはわからないけれど、表現されている個をただ体験すればいい。だから、それぞれ違いはあるけれど、「違っているね」とぼんやり眺めているくらいでいいんじゃないかと思うようになったのだ。
もちろんそうは言っても現実世界では二元思考が優勢だし、肉体を持ってこの世界で生きている以上、そこから完全に開放されるなんて無理なんだとも思う。
100%やろうとすると、非二元が素晴らしくて二元は劣っているという、また優劣の罠に陥りそうな気がするし。
ただ、今までとは違う視点を少しだけ取り入れられれば、自分に価値がないっていうことが少しだけ楽になりそうな気がしている。
人それぞれかもしれない。だけど、少なくとも私はそう思うことで、ずいぶんと楽になることができた。
別の考え方や視点が目に付いたり耳に入ってきやすくなっているとき、それは、「別の考え方をしてもいいのですよ」という兆しなんじゃないかと思う。
今までと同じように親の価値観や世間一般の価値観に合わせて生きててもいいし、それが苦しいなら手放してもいい。身に着けてきた偏見で自分を切り刻まなくてもいい。自分が楽に生きることを選択してもいい。
それを自分に許すかどうかは、その人次第だと思う。
無価値感に悩んでいる人は、あなたが感じている無価値感は本当に必要なものなのか、まずそこを疑ってみる必要があるんじゃないだろうか。