問題を問題と思う気持ちが問題
<2017.9.22>
私たちは、悩みがあるとき、それが個別に存在するように感じる。
だからその悩みについて、一つ一つに解決法を探す。それで解決することもあるが、解決しないこともある。一旦解決したように見えても、また別の問題が持ち上がって悩む。
人間だから悩みが尽きる事は無いかもしれない。だけど、少し見方を変えると、だいぶ悩みが軽くなることがある。
「問題を問題と感じる心が問題」という言葉を聞いたことはないだろうか。どういうことかというと、問題は外にはなくて、自分がそれを問題だと感じてしまうことが、問題だということ。出来事は、いい悪いもなくフラットで、それがいいとか悪いとか、意味付けを与えているのは自分というわけだ。
例えば、彼氏は毎日彼女に連絡をくれるのが当たり前と思っている女性から見たら、毎日こまめに連絡をくれない彼氏の行動は許せないことかもしれない。連絡をくれない彼を責めて、ケンカになるかもしれない。だけど、毎日連絡が当たり前なんて思っていない女性は、2、3日連絡がなかったとしても、それは別に気にかけるようなことでもない。
そんな風に自分が問題と思っていることも、実は問題ではないことも多い。
もしかして、絶対に自分が許せないと思うことでも、別の人であれば、そうは受け止めないかもしれない。
職場の上司が悪い、彼氏が悪い、家族が悪い、環境が悪いと誰かや何かのせいにして、問題が外にあると思っている限り、悩みは尽きない。
あるはずの問題に振り回されてしまう。私もそのことがわからずに、長い時間を過ごしてしまった。そのことに意味がないと思わないけれど、もっと早くに気づいていたら、もっと幸せな時間が過ごせたのではないかと思う。
もちろん全ての出来事をそう達観して思えるわけじゃなくて、問題だと感じて、怒りや悲しみがが出てしまうこともある。
だれど、悪い方に捉える自分側にも問題があるかもしれないという考え方を知って、今感じているネガティブな感情が、偏ったものじゃないかということは考えるようになった。
私は、自分がコミュ障で人と関わることが苦手だとずっと思ってきた。
だけど、コミュ障はコミュ障なりに、不器用に人と関わればいいんだと思えるようになると、そのことは自分の中で大きな問題ではなくなった。
うまくやろうとか、人に蔑まれたくないと思う気持ちが、問題を大きくしていた。多分人から、普通と思われたいと必死だったのだ。普通なんて、どこにもないのに。
自分や相手、物事に対する期待が大きすぎるとき、「こうあるべき」という形が決まりすぎているとき、現実とのギャップを大きな問題と感じてしまう。あるがままに受け入れられれば、問題や悩みはやがて流れていく。
悩みはなくならなくても、気にならなくなる。
自分の考える「こうあるべき」の形が、本当に真実なのか、両親や世間、成長する過程のどこかで身に着けたものにすぎないかは、よく考える必要がある。自分を縛っているルールを決めているのは、自分。だから、それは変更もできる。
問題を問題と感じる心が変われば、問題は問題ではなくなる。
そして、これは一つの問題だけじゃなくて、他の問題にも影響を与えていることがあって、考え方が変わると、他の問題も気にならなくなったりする。
そのことがわかれば、幸せな今日を生きられる気がしている。