「私は可哀そう」という自己憐憫の罠
<2017.5.8>
前にスピリチュアルの先生から、悩みを抱えているクライアントに対して、同じようにセッションをしても、よくなる人とよくならない人に分かれるということを聞いたことがある。
その違いを訊ねると、本人がよくなりたいと思っているか、よくなりたいと口では言っていても本当にそれを望んではいないかの違いなのだそうだ。
生きづらさに苦しんでいる人は、激しい苦痛や辛く悲しい体験がトラウマとなって、前に進もうとする力を奪われてしまっている状況にあるかもしれない。
無理解、過干渉、いじめ、虐待、貧困、処理能力を超えるストレスなど、それは多種多様で、他人の理解が及ばないほど、苦しく辛いものだったはずだ。
その体験が苦しければ苦しいほど、トラウマが深ければ深いほど、それを乗り越えるのは容易ではない。乗り越えるのは容易ではなくて、けれど幸せな人にとって幸せはごく当たり前のことだから、苦しんでいる人に、より辛いルールになっていることは、とても理不尽で残酷なことに思える。
そこまで激烈な体験をしていない私がこれを言ってしまっていいのか、迷いもある。だから、将来的に変わる可能性もあるが書いてみる。
悩みを抱えている人が、十分すぎるほど苦しんでいることは推測できる。
ただ、本当によくなりたいと思うならば「誰か(何か)が悪い。私は可哀そう」という自己憐憫の状況から抜け出さなくてはいけないのではないだろうか。
スピリチュアルの先生が言う。
「苦しくても見知った場所にいるのは、ある意味楽だから。新しいことをするのは、怖いことだから」
誰かのせいにしているうちは、そこから出る必要はない。
自分を憐れんで、被害者・可哀そうという場所に浸っていれば、既存の苦しみは続くが、未知なる体験をしなくても済む。未知なる、多分恐ろしいであろう世界を体験しなくても済む。
何故未知なる体験を恐れるかと言えば、そこに傷があるからだ。傷があるのに、外に出て誰かと関わるのは難しい。
もちろん立ち直る為に、傷ついた自分を癒す時期は必要だと思う。けれど、ずっとその場所にとどまっていては、結局、事態は動かない。昨日と同じ苦しみが続く。
また、その気になれば、サポートの手を差し伸べてくれる人は、沢山いると思う。
それでも、どんな誰であっても、その人の人生を肩代わりはしてくれない。
自分の人生を生きるのは、自分でしかない。
自分が生きるドラマの主人公は、結局自分だ。
過酷な状況をもたらした人や状況を擁護しているわけではない。糾弾されて当然とも思う。糾弾されて当然だが、それをもたらした人物をどんなに呪っても、「悪いことをしたね。反省したよ。その苦しみから解き放ってあげるね」とはならないように思えるのだ。悲しいことだが。
そして、これを言えるのは、私が深いトラウマを抱えていないせいもあるだろうが、全ての新しい体験や人間関係が恐ろしいわけではないと言うことだ。
もちろん嫌な体験もある。そして嫌なことと隣り合わせに、小さな幸せや喜びも、またある。そこに目を向けられるかどうか。
その気になりさえすれば、それは体験できる。
「世界は恐ろしいところで、幸せなんてありはしない。自分には得られない」というのは、周囲によって作らされた間違った価値観・フィルターだ。
それがフィルターかどうかは、世の中に関わっていくことでしか、真に理解することができない。
周囲や環境によって作らされたフィルターに屈して、自分の人生を投げ出していいのか、よく考える必要はあると思う。
誰かのせいにして自己憐憫の苦しみの中にいたいというのも、一つの選択だ。それを選ぶ権利はある。
ただ、本当によくなりたい、自分を幸せにしたいと思うならば、自己憐憫の罠から抜け出して、自分の人生を生きることは必要なのではないだろうか。
とても辛口になってしまった。
色んなことを抱え込んで前に進めない人を責めているわけではなくて、ただ幸せになってほしいと思う。
そしてもう一つ言いたいのは、前に進もうとするとき悲壮な覚悟でやらなくてもいいということ。
後がないという気持ちでやろうとすれば、ハードルはとてつもなく高くなる。不退転の決意や勇気が必要になる。
そんな決死の覚悟で臨むのではなく、もっと軽い、気楽な気持ちで始める方がチャレンジしやすい。
チャレンジしてみれば、案外他愛もないことだったと気づくかもしれない。
誰にでも自分の人生を生きる力はある。ただあまりに辛いことがあったせいで、ほんの少し、それを忘れてしまっているだけなのだ。