尊敬していた人との関係が壊れるとき。「投影」とその後の気持ち
<2017.11.23>
以前関わりの有った女性で、とても尊敬していた人がいた。
「人を否定して心理的優位に立とうとする人」の記事の中でも書いている。
有能で仕事もでき優しく、人格にも申し分のない人だと思っていた。仮にAさんと呼ぶ。Aさんの手の内にあって対立しない限り、Aさんは素晴らしい人だが、Aさんの意に沿わないことをするとき、その人を否定して心理的優位に立つ人だった。
記事では、離れるか離れないか答えは出ていないと結んでいるけれど、結局は離れてしまった。
人を否定して心理的優位に立つといったことだけではなく、人を取り換えのきくパーツのように扱う人だということがわかったからだ。人の感情より、成功したい気持ちが勝ってしまっているように思えて、それも嫌だった。
私を買ってくれていると思っていたから、Aさんの仕事を半ばボランティア的に手伝っていたけれど、Aさんは多分私が扱いやすいからつきあってくれていたのだと思う。
ときどき、自分のカラーとは違うなと思いながら、それでも尊敬するAさんの力になりたくてそばにいた。仕事の合間を縫って、貢献しようとした。だから、Aさんが私が思うような人ではないと気づいたとき、尊敬する気持ちはなくなり、その代り怒りの気持ちが強く出た。
ただ、そういうところを補っても尚、素晴らしいところがたくさんある人だったので、離れないで踏みとどまりたいとも思ったのも事実だった。その後も何度か会う機会はあったが、一度こじれると修復は難しい。私の気持ちも戻らなかった。
心理学の用語で「投影」という心理機制がある。投影とはその人の心の中にあるものが外の世界に映し出されることを言う。
人は皆、自分の価値観やフィルターを通してしか世界を見ることができない。言い換えれば、目に映るもの全ては投影であるということもできる。自分という個を通して見た世界を、真実だと思い込んでしまっている。
Aさんとのことを思い返せば、最初の頃は、尊敬とかこの人は素晴らしいというフィルターを通してAさんを見ていた。
そういう人と一緒にいれば、引き上げてもらえるという気持ちがあったのだと思う。そして、関係がこじれたとき、Aさんを殊更に悪く思う気持ちが出た。その気持ちは、Aさんとの関係を続けられないほど、強いものだった。
ただ、時間が経った今、それもまた投影だったということがわかる。
そのときどきで、色々なものを被せてAさんを見ていた。非の打ちどころのない人格者でもなく悪人でもない、一人の普通の人だった。
Aさんは経営者だから、ビジネス的な側面が出るのも仕方のないことだっただろう。利益を上げていかなければならないのだから、冷静に全体を見て、この人は使えるか使えないか、そういう視点を持つのも当然だっただろう。
Aさんに対する全ての投影が外れたわけではないが、時間が経って、今、わりと偏りなくAさんを捉えられるようになった。
「投影の引き戻し」という心理学の用語がある。
相手に対する怒りや悲しみの感情が収まったときに、洞察が起こるというものだ。
多分、私にもこの「投影の引き戻し」が起きている。怒りが消え、Aさんに見ていたものを、自分のこととして引き受けられるようになったのだ。
自分のコミュケーション下手にも改めて気づいた。関係がこじれたとき、関係を切らずに何かを伝えることができたら、離れずに済んだかもしれない。でも、あのときは、感情的にならずに離れるだけで精いっぱいだった。
Aさんのことが好きだった。たくさんの視点やものの捉え方を教えてくれたことを感謝している。
Aさんとの出会いがなければ、今も生きづらさに喘いでいただろう。
今後同じ道を歩くことはないだろうけれど、今心にある感謝の気持ちを大切にしたいと思う。