幸福になれない理由は、人と自分を比べてしまうから
<2017.11.13>
経済的にとても恵まれている人を知っている。
お金をそれだけ持っていたら、どんなにか幸せだろうと思う。何不自由なく暮らしているその人を、私はうらやましく見ていた。
あるとき、その人の内面に触れる機会があって、幸せを謳歌しているかに見えたその人に、苦しみや悩みがあることを知った。
何も持っていない自分と比べると、その人の悩みはとても贅沢なものに思えて、少し腹立たしい気もした。
持っていないことの不幸せはある意味、わかりやすい。その状況が変われば、幸せになれるように思えるからだ。
お金に限らず、才能がない、能力がない、頭が悪い、容姿がよくない、仕事ができないと、様々なことに劣等感を抱き、私たちは憂う。
「あの人はあんなに恵まれているのに、それに比べて自分は…」と。
けれど、持てさえすれば幸せになるのかというと、必ずしもそうはならない。
恵まれた人が必ずしも幸せになっていないことを見て、それを知った。
お金があっても、今度はそれを失うのではないかと怯える。そうじゃなければ、もっと手に入れたいと願う。努力して何かで抜きんでても、もっと才能のある人が現れれば、優越感は打ち砕かれ、劣等感が取って代わる。
自分が人より何かで勝っても、上には上がいる。
インターネットが発達した今、少しくらい得意なことがあっても、上には上がいることが容易にわかってしまう。
一番にならない限り、どこかでは負ける。
人によっては、自分より劣っていると思える人と自分を比べて、優越感を抱く人もいると思う。そうやって自分は人より優れていると思うことで、自分は価値ある人間だと自分自身に言い聞かせる。
けれど、誰かと自分を比べ、優劣を競っている限り、多分本当の意味で幸せになることはできない。
それが相対的な幸せだからだ。終わりがない。
じゃ、どうすればいいのかというと、相対的な幸せを求めるのはやめて、絶対的な幸せを求めるしかないと思う。
ただ、社会が競争原理で動いている以上、完全に相対的なところから抜けるのは難しい。
競争の中にいるからこそ、努力したり上を目指したりもできる。そこから完全に抜けるということは、もう仙人とか、そういうレベルの話になってしまう。
だから、誰かと比較する価値観を緩めるということになると思う。
以前趣味で、アート系の作品を制作していた。やり始めたときは、ただ制作することが面白くて、完成すると嬉しかった。
けれど、いつか他人と比べるようになった。
後から始めた人がたやすく素晴らしい作品を作るのを目にするたび、苦しかった。自分が作りたいものではなく、評価されやすいものを作るようになり、少しも楽しめない自分に気づいた。そして、その趣味をやめた。
相対的な幸せを求めていたから、苦しかったのだと思う。
本来は比べることなんてできない分野のはずなのに、そんなこともわからなくなっていた。
始めたときのように、純粋に好きという気持ちで、自分の為に作品を作り続けていられたら、まだその趣味をやめなくて済んだのではないかと思う。
そういうことが絶対的な幸せじゃないだろうか。
自分の内なる声に耳を澄まし、純粋に自分が楽しいと思えることを探す。
他人と比べない幸せが、そこにはある。