人を否定して心理的優位に立とうとする人
<2017.5.6>
知り合いに、明るく気さくで、統率力があって、人を魅了する女性がいる。
社会的にも成功していて、人格的にも申し分のない人だった。仮にAさんと呼ぶ。
Aさんが目をかけてくれて親しくしてくれることは、私にとって、何より幸せで誇らしいことだった。
だからAさんから、私の行動について初めてダメ出しをされたとき、私はひどく混乱した。
優しく諭すという感じではなく、私に対する強い否定と批難、抑制はされているが激しい怒りを感じとったから。私はただひらすら委縮して、謝った。
全く寝耳に水の話で、何がそんなに逆鱗に触れたのか私には理解できなかった。
日常生活にはよくありがちなことに思えたし、殊更にそれが問題になる理由がわからなかった。
ただ自分がAさんの領域を侵してしまったことを感じた。
自分にとって多大な影響力を持つAさんとの関係を続けたかった私は、自分の捉え方よりAさんの感じ方を優先して、自分に向けられた「否定」を受け入れた。
釈然としない気持ちは残ったが、信頼の方が勝っていた。
けれど、関係が長くなるにつれ、綻びが少しずつ見え始めた。
心無い振る舞いも時々目にし、人格者というのは、私の思い違いではないかと思えることもあった。
ある日、それが決定的になった。
Aさんと共に働く女性に対して、私のときと同じように、彼女の行為を批難する場面に遭遇したのだ。
「あなたの為を思って、敢えて言うのだけど」という体裁が取られていて、そこだけ見ていたのなら、Aさんの主張は最もだと思ったかもしれない。
けれど、その少し前に、仕事仲間の女性がAさんに対して意見し、それをAさんが快く思っていないことを聞いていた。
冷静な視点で見ると、仕事仲間の女性の行為は批難されるような内容ではない。建設的な一つの意見として、述べたにすぎないのが、私の目から見ても明らかだった。聡明なAさんが気づかないはずはない。
意見されたことが面白くなかったのだろうか。理不尽にAさんが反応しているように思えた。
それを間にあたりにしたとき、からくりが見えた。
Aさんは、心理的優位に立つ為に、人を否定するのだ。一種の心理操作、コントロールだった。
人は自分を否定されれば、自信を失う。ましてや一緒に仕事をしている相手ならば、Aさんの仕事の邪魔をしたのではないかという罪悪感を持つ。その心理を巧みに利用していた。
一見仕事仲間の行為を問題にしているようで、相手をへこませる為に、心理的優位に立つ為に、それを問題にしているにすぎなかった。
自分がやられたときはわからなかったが、当事者じゃなければその仕掛けがよく見えた。
常に誰彼構わず攻撃的な人ならば、人は警戒する。
けれどAさんは明るく魅力的で、そんなことをする人には見えない。だから、心理操作をするような人だとは、誰も微塵も考えない。けれど、ここぞというときには、それを効果的に行える人だった。
そう思って見ると、Aさんは人気者で皆に慕われているが、離れていく人も一定数いることが見えてくる。
Aさんが殊更悪い人だとは思わない。自分が優位に立つ為に人をコントロールしようとする人は、いくらもいる。
けれど、Aさんを人格的に優れた人だと思っていた私には、ショックなことだった。Aさんを失ったようで動揺した。
Aさんを失ったのではない。自分の理想像に勝手に当てはめていた、自分の想像の中のAさんが存在しなかったというだけなのだ。
今なら、そうやって防衛しなければ成功者たる自分を守れない、Aさんの自信のなさにも気づくことができる。
完璧な人なぞいない。皆、いいところも悪いところも併せ持っている。
自分から見れば短所に見えるところも、他の人はそうは受け取らないかもしれない。
そこを受け入れられないと離れるか、受け入れて付き合うか、まだ私の中で答えは出ていない。