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自己犠牲は美徳ではない。「いい人」の仮面の下に怒りを充満させる

自己犠牲は美徳ではない。「いい人」の仮面の下に怒りを充満させる

<2017.2.15>

自分を犠牲にして、他の人の為に尽くすことを「自己犠牲」と言う。

少し前まで、自己犠牲は美徳だと思っていて、自分さえ我慢して周囲と軋轢なく過ごせば、丸く収まるならそれでいいと思ってきた。

それは自分の身を削っても周囲の人に何かしてあげたいという崇高な考えからではなくて、事なかれ主義で、余計な主張をして面倒を起こしたくないというただの保身だった。

相手に合わせることばかりを優先すれば、自ずと自分の考えは隠さなければいけなくなる。
「ノー」と言わず、自分の意見や欲求は押し殺し、寛容な人当たりのいい、「いい人」を演じる。

それでいいと思ってやっているはずなのに、我慢は多大なストレスを誘発する。
怒りが毒のように体に充満して、身体を蝕んでいく。

自分の考えや怒りが外に漏れ出さないようにする為に、エネルギーの大半を使い果たす。
苦しくて仕方なかった。以前感じていた異常な疲れ具合は、我慢のしすぎだったと思う。

そして「いい人」「優しい人」でいたいという思いとは裏腹に、周囲の人に対して、怒りを募らせ、不寛容になっていく。

自分に我慢を強いる人に苛立ち、我慢を強いられる側の人に対しても「私がこんなに我慢しているのだから、あの人も我慢するべき」そんな風に思うようになっていた。

今、自己犠牲をやめている。
自分が苦しくなるまで、他人に迎合する考えをやめた。

嫌なこと全てに「ノー」と言えるまでにはなっていないけれど、「ノー」の選択肢が自分にもあることを意識している。それくらいが丁度いい。
気の弱い人は、全てに「ノー」ということもストレスになったりする。

我慢をしなければいけない場面もあるけれど、自己犠牲じゃなくて、「今はそれを自分の意思でやる」と受け入れて、やっている。

我慢をさせられているという受動的な考えではなくて、自分の意思で能動的に選択する感じ。同じように思えるが全く違う。

以前に比べ怒りを感じることは、殆どなくなった。
人に対して上辺ではなく優しくなった。

人は理不尽な要求を呑む人に対して、感謝ではなく、より我慢を強いることがあると思う。
「引き寄せの法則」に関わるのだろうが、以前はそのループにはまりこんで、より我慢をしなくてはいけない状況を呼び込んでいた。

不思議なことにそのループから出ると、自己犠牲をしなくてはいけないシーンに遭遇することが随分減った。

自分が出すエネルギーの波状が変わったのかもしれないなと、ふと考えたりする。




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