集団が怖い。人と違うことは悪なのか
<2017.2.23>
小学校の頃、私はいじめられっ子だった。
コミュニケーションを取るのが下手で、運動もできない、空気も読めない。ちぐはぐな言動も多くて、クラスでも浮いていたと思う。
一言で言うなら「変わり者」。皆と同じようにできない自分が恥ずかしかった。
子供は、狭い視野の中で生きているから、異質であることは悪いことだった。
間違っているのは自分、周りに合わせて自分も普通にならなきゃいけない、少なくとも普通に見える振る舞いをしなくてはいけない。
変わっている方が間違っていると信じ込まされ、人とは違うアウトサイダー感を、大人になってもずっと引きずってきた。
でも、「普通」なんて実際にはない。
一見普通に見える人たちだって、考えや認識や価値観がぴったり一致することなんてなくて、一人一人それぞれ違っている。
それなのに、同じ部分より些細な差異に目を向けてしまう偏った考えは、いまだ根強い。
違いが脅威になるのは、異質なことが生死に直結する古い古い時代の名残だ。
もうそんな時代じゃなくなって、今の日本ですぐに生存が脅かされることなんかなくなっているのに、古い古い時代の考えが幅を利かせている。
誰か生贄を決めることで、集団としてまとまるということは実際にあると思う。
大人になってからも、異質な感じを漂わせる人をターゲットにして、苛めるような集団は存在する。異質なものを排除するのが楽しいという人達だ。
けれど、それは偏った幼稚な考えだろう。
単なる違いを単なる違いとして楽しむことだって、私たちはできる。
多様性を排除するのではなく、受け入れることのできる人も確かにいる。
そういう人たちに出会って、やっと、違うことは悪いことではないと気づくことができた。
人と違っていることは悪ではないし、むしろ人と違うことに誇りを持ってもいい。
一番怖いのは、大人になっても、世の中全ての人が、子供の頃と同様の偏った考えを持っていると思ってしまうところだ。
そう思えば、自分を異質だと自覚する人は、集団と関わるのが怖くなる。
そして、努力で普通になろうとして苦しむ。自分を嫌って、必死に自分以外のものになろうとして、心を疲弊させる。本当の自分は誰にも見せられない。
けれど、もう一度言う。人と違っていることは悪ではない。
違いを受け入れてくれる集団も存在する。人と違う自分を嫌う必要はない。
それでも、集団が怖くて社会出られないと思うなら、こう考えたらどうだろうか。
自分対集団として考えると、集団が一枚岩のように思えて怖くなる。
集団は、ひと塊ではなくて、違いを持った個の集まりなのだ、と。一人一人は、普通ではなくて、それぞれ違っている。