ついつい心配ばかりしてしまう心配性の人が不安を解消する為にできること-1

私は不安を抱えやすい。いつも何かしら心配したり悩んだりしている。
今作った言葉だけど、「不安製造機能搭載」タイプと言ってもいいかもしれない。望んでなんかいないのに、不安を製造し続ける。
不安を感じることが一切ないという人はいないと思うが、不安製造機能搭載型の人は、いつも何かに怯え不安を抱えながら生きている。
この「いつも」がポイントで、ひとつの不安が解消してもまた別の不安を探し出して心配している。
たえず不安を製造しているようなものだ。
神経症性障害とか、そんな診断名がつくほど深刻でなくても、常に不安がつきまとって頭から離れないなら、悲しいかな、あなたも「不安製造機能搭載」かもしれない。
不安に似ている感情に恐怖がある。
恐怖と不安の違いは、対象がはっきりしているかしていないか、だそうだ。
恐怖は恐ろしいものだが、恐怖を感じる対象がはっきりしている分、具体的な対策を練りやすい。
対象にアプローチしやすい。
けれど不安は違う。漠然とした不安は、対象がはっきりしていない分対策が取りにくい。
対策が取りにくいという意味ではやっかいな感情とも言える。
「失敗したらどうしよう」「うまくやれるだろうか」「この人は離れていくんじゃないか」「今持っているものを失うかもしれない」「またあのよくないことが起きるかもしれない」
不安は、起こっていないこと、未来に対する感情だ。起こるかもしれないという予期不安。
その未来は実際には起きるかもしれないし、起きないかもしれない。それは誰にもわからない。
わからないこと、不確実なことだから不安に駆られる。確実に起きることなら、それは不安ではなく恐怖に転ずる。
不安を感じるのは悪いことばかりではない。
恐れが、その恐怖対象に対抗する為ノルアドレナリンを分泌し、瞬間的に身体を臨戦態勢に整えるように、不安は本来、未来に起こるかもしれない危機を想定し、それに予め備える警報機としての役目を持ったものだったはずだ。
けれど、肥大した不安は、日常生活を侵食するようになる。
いたずらに不安に駆られて時間を浪費しているだけならまだいい。
夜も眠れなくなる。仕事にも障りが出る。
最悪なのは、不安な感情を自分の中だけで処理しきれなくなって、身近な人間に不安をぶつけてしまうこと。
ごく親しい人間に転嫁することで、てっとり早く不安から逃れようとしてしまうのだ。
他人の不安をなすりつけられた側が面白いはずもなく、余計な摩擦を引き起こしてしまう。
その他にも、不安から他人と比べて少しでも自分が秀でるところを探して安心しようとしたり、ろくなことはない。
不安がつきまとう日常が苦しくて、何度も「不安製造機能」を切り離そうとしてきた。
けれど、不安はなくならない。
そういう気質を持って生まれついたのだ。100%なくなることはないから、うまくなだめてつきあってつきあっていくしかない。
不安を暴走させる燃料は、実は不安だ。
不安というガソリンを燃やし続けることで、不安は増大していく。
皮肉なことに不安感じることにエネルギーを注いでいると、やった感がある。
負の達成感があってまさに「生きている」という気分になるのだ。
そして、これだけ心配しているのだから、その不安の鎖から逃してもらえるのではないかと、どこかで思い込んでしまう。
でも冷静に考えればそんなことがあるわけがない。
必要以上に不安に感じて、ぐるぐるとそれにとらわれ続けても、そこから逃れられるわけではない。
不安が的中したときの痛みに対するクッションにもならない。
その間にもっとできることがあるはずなのだ。
自分ではどうにもできないことを考えるのはもうやめて、別なことにエネルギーを注ぎたい。
長くなったので、次の記事で心配性の人が不安を解消するためにできることを具体的に考えていきたい。