無価値感に苛まれる人と『ビリギャル』の奇跡
思い込みが、内部に素地を作り上げる。
そこに種が捲かれる。初めはほんの小さな種に過ぎなかったものが芽を出し、蔓を延ばしどこまでも蔓延っていく。
それはネガティブなことでもポジティブなことでも。
そして思う通り、そのままの形に実っていく。
惧れがあれば惧れに呼応するものが育ち、満ち足りていれば満ち足りたものが育つ。
なんだかふとそんなことを考えた。
生きづらさを抱えている多くの人が、無価値感に苛まれているように思える。
実際はそうじゃないかもしれないのに自ら可能性の芽を閉ざし、 望んでもいないのに可能性の閉じた道を歩いていく。
例えば、誰かに指摘されたりして自分が頭が悪いことを自覚した子供が、頭が悪いというモデルに沿って行動していくようなものだ。
もしかしたらその自覚は全く的外れなのかもしれないけれど、その子供はそう思って行動する。
勉強しなくなって、親が「勉強しなさい」と言っても反発して、成績が落ちれば「ほらやっぱりね。頭が悪いんだから、どうせやっても無駄なんだ」と思い込む。
そしてますます勉強が嫌いになってしなくなって、「自分は頭が悪い」という思い込みを強化していく。
事実がどうあれ、それがその子供にとっては真実だから。
自分が信じた思いは、行動によって更に強いものになる。
少し前にかなり遅ればせながら、『ビリギャル』(『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴・著))を読んだ。
多分感想は色々なところで書かれているだろうから、ここでは深くは触れないが、偏差値が30しかないビリのギャルのさやかちゃんが、塾講師の坪田先生と出会ことでやる気に目覚め、慶應大学に現役合格するまでを綴ったノンフィクション小説だ。
坪田先生がビリギャルさやかちゃんに膨大な可能性を見出して接するところ、夢を叶えようと努力を始めた子供を信じてあたたかく見守る母親(ああちゃん)の姿、そして坪田先生を信じて遮二無二に突き進んで奇跡を起こすさやかちゃんの頑張りに、感動を覚える。
ネットの記事を読むと、さやかちゃんは元々名門女子高へ通っていたのだから頭が悪いわけがない、そんなことが書かれてあったりする。
その辺の事実はわからないけれど、慶応に入れる程の頭のよいさやかちゃんがビリに甘んじてきたところが怖いと思う。
成長のどこかで、自分は頭が悪いのかもと思って、多分ビリでギャルの子がやりそうな行動を取って、その確信を日々強めていったのではないだろうか。
さやかちゃんは決して鬱々としていなくて、天真爛漫でその辺は救いだ。
けれど、「頭が悪い」「バカ」「能力がない」「容姿が悪い」「愚図」「愛想がない」「何をやらせてもできない」「誰からも好かれない」極めつけは「生きている価値がない」…そんな風に誰かに呪いをかけられた子、または自分でその呪いをかけてしまった子は、本当に可哀そうだ。
お前はそうだという指摘や決めつけが、思い込みのきっかけとなることは多い。
何ほどかの指摘される要素が仮にあったとしても、それはただの偏見だったり、その時点でそう見えるだけのことだったり、指摘した人間の器量のなさ、元々的外れな指摘の可能性だってある。
そして、断じて何もかも全てダメなんてことはない。
やっていないのに全てがダメなんてわかるはずがない。
指摘や決めつけは、言葉でなくて態度の場合もある。
子供時代に、社会に出てからも、そう思い込まされることがなんと多いことか。
さやかちゃんの場合は、頭が悪いギャルという思い込みの蔓を坪田先生が見事にぶった切ってくれたわけだけど、もちろんそこにはさやかちゃんの類まれなる努力もある。
でも、そういうことはまれだ。だから奇跡で、本にもなって映画化もされている。
坪田先生がいない普通の人は、自分で信じた蔓に縛られながら生きるようになる。
ネガティブな蔓ばかりではなく、繁殖しているのはポジティブな蔓の場合もあって、頭がいいとか能力があるとか、そんな風に自分を信じることができて、努力を重ねていける人は幸せだ。
元々備わっていない、獲得もできないだろうと信じているものに対して、努力し続けるのは並大抵のことではないから。高く高くそびえたつ壁にひるむ。
一部にはそれでも努力を続けられる人もいる。
例えひとつの分野が自分に向いていないとしても、それは他の可能性が広がったという解釈ができる人たちだ。
けれど、無価値感にとらわれている生きづらい人たちは、壁の前で立ちすくんだままだ。
自分を嫌って身動きができなくなる。
坪田先生のように愛情を持って成長を見守ってくれる人がそばにいなくても、それでも、自分を縛るネガティブの蔓をぶった切る何かを見出してほしい。
それは人によって違うと思う。
坪田先生のような人であることもあるし、きっかけや思考など全く違うものかもしれない。
無価値感に苛まれている人は、その何かを見つけて、奇跡を起こしてほしいと思う。
生きる自信を取り戻す「奇跡」を。