病気と介護から見えてきた大切なものー私の気づきという宝物-2
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: はるうさぎ さん)
(「病気と介護から見えてきた大切なものー私の気づきという宝物-1」からの続き)
振り返ると私って「バリバリ健康です!」って言えるような時期はまずなかった気がします。
精神科を初めて受診したのが12年くらい前で、当初は難治性うつ病という診断が、8年後にやっと双極性2型になりました。
病名が変わったところで、生活が変わるわけもなくて、相変わらず在宅介護の日々でしたけど…。
10代の時は落ち込んだり、自己嫌悪に陥ったりしましたが、そのうちに開き直ったのかな?体調が悪くても、それなりに出来ることをやっていけばいいや、と思って、他の人と自分を比較するのもやりませんでしたし、できないことを嘆くよりも出来ることで生きていけばいいや、と思うとコンプレックスとも無縁でした。もともとマイペースな人間なので、抵抗がなかったんですよね。
10代の辛い時期、やっぱりしばしば「死にたい」とも考えていたんだろうけど、それよりもやりたいことがあって、多分それが「絵を描きたい」ということで、道を開く手伝いと原動力にもなってくれていたのだと思います。
この10年あまりはほとんど両親の在宅介護をしていました。父はまる4年近く。少し間をおいて、昨年4月に母が特養に入所するまでの1年半あまり。
二人とも要介護5で、父は胃ろうでした。母は褥瘡が悪化して片足切断でした。私自身も交通事故にも遭ったし(軽かったですが)なんだかとても必死でした。
弟も同じ私と同じ病気で、もっと状態が重いので、いまでも介護しているような気がしますが…。
家族の急変でこの10年間で救急車の付き添いで乗ったのが十数回、そのあいだに高校生の時から30年以上悩まされていたパニック発作の症状がなくなったというご褒美(?)がありましたが…。自分のことじゃないことで必死になるってこういうことなのか、と思いました。
死ぬことをとても恐れていた父を最期の3日間はずっと手を握って頬ずりしたままで、安心した安らかな顔で看取ることができたのは私の宝物のような経験になりました。その瞬間に深い確信が生まれて、「どうして自殺がいけないのか?」とか、「死ぬとどうなるのか?」とか、そういうことがバーッと私の中に入ってきました。父と一緒に一度死を体験したみたいです。
父が最期にくれたプレゼントでした。わずかな悔いもない介護を全うすることが出来ました。
いまは、その時の確信をもとに、ターミナルケアに関われたらいいなあ、という願いを持っています。もっとも医療も宗教も無関係な人間なので、どうすればその手段があるのかわからないままですが…。
でもそういうふうに誰かの役に立ちたくてたまりません。私はそういう位置に自分の居場所を見つけたような気がします。そう思うと、いままでの経験がすべて無駄ではなくなるのですね。
私の生きづらさを検索すると「インディゴチルドレン」とか「ライトワーカー」などの言葉にぶつかって、実際にかなりの項目が自分の場合に当てはまるのですが、これらの観念を特別視したくないし、また特別だとも思わないので、これを自分なりに生かしてこそ意味があるんだと考えています。
辛くても死ねない理由もわかってしまったし(^_^;) あと残りそんなに長くない人生だとは思いますが、自分が一番やりたいことを大切にしつつ、人のために生きたいと欲張った願いを抱いています。
いままでもこれからも病気とともに生きることを否定したら、私の人生はそもそもが全否定になってしまいます。「病気も友として一緒に行けばいいんだ」って思うから、今現在の双極性障害ともそれなりにつきあっていけるのかもしれません。
病気も、体質も受け入れるとやっぱりそこから見えて来るものがあるなあ、と思います。
だからやっぱり私は今の人生って大変だけど、それなりに好きだなあ。病気のマイナス面に負けない強さがあることもわかりますしね(^^) 病気にも介護にもメンタルを鍛えられました。面白いものです。
私はいくつもの分野のマイノリティーなので、それだけ幼い頃からの生きづらさを感じてきましたが、それでも「良き人とのご縁」に恵まれていることは感じています。それが幸福であることも理解しています。このさきも弱者の立場にいる人たちに寄り添って、なにか出来ないかとばかり願っています。結局は「それでも人が好き」なのだと思います。
私だからこそ、私なりの方法で人と関われるはずだと信じています。これからの課題ですね。楽しみです。
長い文章をお読みくださった方、本当にどうもありがとうございました。いつかどこかでご縁ができるといいな、と願いつつ…。
あなたの「いま」が幸せでありますように…(^^)
(はううさぎさんのブログはこちら「つれづれ日記」「つれづれ日記 -逝春抄-」)