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知人が買った一軒家の片づけを手伝った

知人が中古の一軒家を購入した。
先日その知人に頼まれて、購入した家の片づけを手伝ってきた。
詳しい説明は省くが、その家の主人が亡くなって家は売却され、知人が買ったというわけだ。
招き入れられると、ぷんと黴とナフタリンの匂いが鼻をつく。
中は、前の住人が生活していた状態そのままのようだった。
家具に家電、食器や鍋、布巾に雑貨、紙類、靴、洋服、カバン、帽子、傘、布団…普段は意識しないが、私達はなんと多くの物に囲まれて暮らしているのだろうと思う。
家には物が溢れていたが、今流行りのミニマリストのお宅でもない限り、多かれ少なかれこんな感じではないだろうか。
ゴミを捨て、ある程度整理をして、売れるものはリサイクルショップに売って、後は業者に処分を依頼するという。
白く薄っすらとそこかしこに積もった埃、ティーカップには細かい傷がつき、傷に入り込んだ茶渋は漂白剤に浸けても多分取れない。
紙類は黄色く変色し、台所に飾られた木のビーズすだれは糸が切れて、ビーズが散らばっている。
元の家主と面識のない知人は、使えそうなものも躊躇なく捨てていく。
その捨てっぷりは小気味よいほどで、知人に習って片付けてながら、同時にいくらかの罪悪感を覚える。
中には価値のあるものもあるのかもしれないが判断はつかない。ゆっくり仕分けをする時間もないし、私が口出しできる状況にもない。
物の価値は、所有者が決めるという不思議さを思う。
属する主がいなくなれば、物は行き場を失う。
元の家主には成人した子供がいるらしいが、何も手つかずの状態のようだった。
アルバムなど故人や家族にとって大事だったと思われる物の類まで残っている。
肉親の遺品に何も手をつけずに、家を手放した理由は何だっただろう。
単に整理をする時間がなかったのか、元々物に執着がなかったのか、親と疎遠だったのか、逆に思い入れがありすぎて、自分では手を入れられなかったのかもしれない。
本当にほしいものは持ち出したのかもしれず、真相はわからない。
少子高齢化や核家族の増加に伴い、遺品整理の仕事が注目されるようになってきていると聞く。
家族数が多かった頃なら、故人のことを思い出しながら遺品を皆で整理したのかもしれないが、今は個人に属する物があまりに多い。
物が共有財産でありえたり、今よりずっと価値があった頃とは様子が違ってきている。
個人に属する物が少なかった時代、遺品整理は寂しいけれど、気持ちを整理するのに必要な作業ではなかったか。
現に、私の母も、祖父がなくなった後、母の妹と遺品整理していた。それに私も少しだけ参加したことがあったが、亡くなってからしばらくしてからの整理だったこともあり、二人の様子はどこか楽しげな感じもあった。
多分楽しい思い出を追体験していたのだ。思い出話に花を咲かせながら、物に始末をつけていく。
使えるものは使えるところに、もう使われないものは思い出と共に片付けられていく。
一人っ子の私は、順当にいけば、いずれその役を担うだろう。
けれど、一人で行うには荷が重すぎるように感じられる。
人が生きるのになんと多くの物を必要とするのか。
感傷に浸っていたら絶対に終わらないほど物は多く、私は多分怯むだろう。
今はまだ想像はできないが、業者に依頼もあるかもしれないなと思う。
そして私に属する物たちのことを考える。私が死んだ後に残る物たち。
他人にとって全く価値のないものを溜め込んでいることに、苦笑したい気持ちになる。
だからといって、物を大きく処分することはできないだろう。
片づけを一旦終えて外に出てると、無数の家が立ち並んでいるのが目に入る。
立ち並ぶ家々ひとつずつに、膨大な物が詰まっていることを思わずにはいられない。