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貧困のことなど考えなくてもいい人と『下流老人』
趣味で続けているカルチャースクールの展示会の受付で、年配のご婦人と一緒になった。
受付をしながら色々と話をした。品がよく聡明で溌剌として、聞いた年齢よりずっと若々しい。
ご婦人の友人と、友人の家族が作品を見に来てくれたらしく、受付に現れた。友人の孫と思われる可愛いらしい2、3歳くらいの女の子が受付にいる私たちに手を振ってくれる。
「可愛いですね」と私が言うと、婦人から「あの子はいいわよ。大事にされているから。でも母親が働きにいって育ててもらえない子は可哀相ね」という返事が返ってきた。
聞けばどうやら、母親が外で働いている子供は可哀そうで、専業主婦の子供は可哀そうではないということらしい。
母親が仕事で日中一緒にいられない子が可哀相という認識がない。
というか、日本にはそういう境遇の子が多すぎて大半の子が可哀相な状況に当て嵌まってしまうと思えたので、「旦那さんの収入だけじゃやり繰りできない家庭も多いんじゃないですか」と問いかけてみる。
「そうかしら。今の若い人は贅沢をしているから」
贅沢の為に子供を預けて働いている母親もいると思うが、感覚だけだが、もっと差し迫った理由で働いている母親の方が多いのではないだろうか。
やりがいやスキルが途切れてしまうことへの恐れ、一度離職すると給与水準が下がる傾向や社会と繋がっていたいなど、理由は様々あるはずだ。
その中でも、特に経済的な事情は切実だろう。
昔に比べれば今の生活は贅沢に感じるのだろうけれど、だからといって以前の時代へ戻れるわけでもない。
果たして今の若い人は贅沢をしている人ばかりなのだろうか。
このご婦人を侮辱つもりは毛頭ない。色々大変な思いもされてきたことが窺えて尊敬も感じる。
ただ、専業主婦で子供をきちんと育てあげた自負心を差し引いたとしても、このこの方にとって経済的な理由で働くということは遠い話なのだろうと思う。
身なりや話す内容から豊かな暮らしぶりが窺える。
ちょうど今読んでいた『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(藤田孝典・著 朝日出版社)のことが思い出された。
2015年の流行語大賞候補にノミネートされた「下流老人」の語源になった書籍である。
下流老人は著者の藤田氏の造語で、その定義を「生活保護基準相当で暮らす高齢者およびその恐れがある高齢者」としている。
本の帯には「年収400万でも将来、生活保護レベルの暮らしに!?」というコピーが挑発的に踊る。
藤田氏は、生活困窮者支援を目的としたNPO法人の代表者だ。
今まで経済学の観点から貧困が論じられることはあったと思うが、実際に高齢者の貧困に携わる人からの言葉は重い。
現役期がいかに順風満帆でも、本人や家族の病気、熟年離婚など想定外のトラブルで「下流」へと陥ってしまう現状が、リアルに描かれる。
家族というモデルが急速に失われ、家族を構築できなかった一人暮らしの高齢者の貧困は更に厳しい。
加えて藤田氏は、高齢者の貧困に限らず、年々日本における相対的貧困率や格差は拡大する傾向にあると警鐘を鳴らす。
貧困は、老人に限定される話ではなく、若者の貧困と根は同じだという。
けれど二極化する貧困層と富裕層の富裕層側に暮らしていれば、貧困は見えづらい。
かつてあった一億総中流時代が失われていることに、婦人が気づかないのは当然のことかもしれない。
2015年、非正規雇用者の割合が4割に達した。
私が忍び寄る貧困の足音を聞くことができるのは、貧困に近いところにいるからだ。
今は先のことを考えたくないからと考えることを先延ばしにしているが、非正規雇用で働き、大した貯蓄もない自分は、老後は下流へと陥りかねない。
あまりに隔たりが大きすぎて、貧困のことなど考えもしないご婦人を羨んだりはしないけれど、すぐそばにいても、全く違う世界にいて全く違うものを見ているのだとは思う。
下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 (朝日新書)