一見ネガティブに見える出来事にも、別の側面がある

<2016.12.22>
あるネガティブに見える出来事があって、落ち込んで自分を責めている人や不満で身動きができなくなっている人に、何と声を掛けたらいいのかと思うことがある。
ある人は、職場での自分の能力の低さや仕事ができないことに悩んでいた。
それは一頃の私でもあるのだけど、一見ネガティブに見える出来事にも、もしかしたら別の側面がある。
ついいいか悪いかだけで判断してしまいがちになるけれど、その判断は今現在そう認識しているということでしかない。
自分の能力に見切りをつけて転職してみたら、転職先の仕事が自分にすごく合っているということもあるだろうし、新しい職場で、運命的な恋に落ちてゴールインということもあるかもしれない。そのまま職場に留まり、仕事の内容が変わって仕事がやりやすくなるかもしれないし、苦手だった上司が転勤になって、萎縮せずに仕事をするようになったら能力の低さが気にならなくなる、なんてこともあるかもしれない。
長いスパンで見たら、今思っている、いいか悪いかという判断がひっくり返る可能性は多分にある。
もちろん現状は何も変わらないという場合もあるだろう。
後になってみなければ、その出来事の意味はわからない。
時間が経過すれば、その出来事が本当にネガティブだったのかポジティブだったのかは、捉えやすくなる。
時間が、事象を別の視点から見直させてくれるのだ。
けれど、潜在意識の領域で起きていることの意味を理解することは難しい。
現状の能力の低さは変わらないかもしれないけれど、同じように能力の低さに悩む人に対して、親身に話を聞いてあげられるようになって、魂が磨かれるとか、そんなことが潜在意識のレベルでは起こっているかもしれない。
複雑に組み合わさったこの世の理は、考えの及ばない範疇にある。
私について言えば、今、自分の能力の低さについてあまり思い煩ってはいない。
職場も上司も、私自身も現状は何も変わってはいない。
上司が自分の能力について低い評価を下しているという、被害者意識がなくなっただけだ。
それに囚われていたのは、自分だった。
自分に対する評価の低さがミスを誘発して、悪循環に落ちていた。
すごく悩んでいたときは、自分がこういう気持ちになることは、少しも考えられなかった。
落ち込んだり悩んだりしたとき、つい今見える、いいか悪いかだけでジャッジしていないか、考える必要はあると思う。いいか悪いか、白か黒かと判断しそうになるのを少し棚上げにする。
現時点で答えはでないと、いい意味で今の状況を手放すことができれば、ネガティブな状況をどうにかしなくてはいけないという焦りや不安からは解放される。
それが「神の采配」を信頼するということなのではないかと思ったりする。
「神の采配」というと宗教的な感じがするが、結果に執着しないとか、あるがままの状況を受け入れるというか、もっと大きな存在に委ねるというか、場や事象を信頼するというか、そんな感じ。