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その不安は現実のもの? 今実際に起こっていないことを恐れはいないか。
現実は思っているより優しいんじゃないかと最近考えるようになった。
優しいというと語弊があるかもしれない。
実際の現実よりずっとひどい状況を想像してきたけれど、その想像よりは幾分マシなんじゃないかと思えるようになったのだ。
ずっとネガティブのフィルターを掛けて、過剰防衛をしてきたけれど、それって本当に正しく現実を認識していたのだろうか。
ときどき、実態のないものと闘っているときがある。
人の顔色を窺って、言葉を素直に受けとめないで、裏側にあるであろう真意を深読みして、相手の行動に一喜一憂して、自分の出した本当かどうかわからない結論に飛びついて、悲観して落ち込んで。
病的な被害妄想でなくとも、想像だけが先行して不安になることは、誰しもあるだろう。
自分のことだとよくわからなくなるが、人の言動はよく見えることがある。
友人からの恋愛相談で、「もう嫌われたのかな?」という質問は定番だ。
「彼から連絡が来なくって、もう私のこと嫌いになったのかな?」
「何か思い当たることあるの?」
「うん、この前…」
と言って話してくれる内容は、嫌われる原因になるとは思えないようなたわいもないことだったりする。
「大丈夫。彼はそんなことで嫌いになったりなんかしないよ」
案の定、嫌われたかもしれないというのはただの心配に過ぎない場合が多い。
彼の事情は、ただ忙しくて連絡できなかったとか、他のことで頭がいっぱいだったとか、単に疲れていたとか、事実はそんなことだったりする。
「あの後、彼から連絡あったよ!」
頬を紅潮させてそんな風に報告してもらうと私も嬉しくなる。
精神的に安定した大人は、恋人のことを簡単に嫌いになったりはしない。
もちろん別れが訪れる場合だってあるが、それは些細な一つのことが 原因ではなくて、色々なことが積み重なっての別れ。
「もう嫌われたかもしれない」と先読みして、傷つかないように防衛して、ショックを最小限にとどめようとする心理はわからなくはないけれど、ありもしない事実に怯える時間はもったいない。
別れはいつかやって来るかもしれないけれど、それまでの間は彼を信じて楽しく過ごすこともできるはずだ。
心配したからと言って、現実は変わらないし、別れがやってきてから悲しんでも遅くはない。
起こってもいないことに傷つく必要はない。
結果として、そのまま何事もなく愛を育めれば、それが一番いい。
恋愛に限らず、思い込みや憶測、不確定なことに踊らされないことは重要だ。
認知の歪みがないかは検証した方がいい。
不安を感じやすい心配性の人は、頭の中の幻影に怯える。
少し話はそれるが、このブログには「過去のトラウマ 働けない」「過去のいじめ 働けない」
そんなキーワードで辿りついてくれる人がいる。
とても辛い思いをして来た人だ。
そういう人が外に出ていこうとすることは想像を絶する。
被害者になったことのある人は、昔の経験に照らし合わせて、現実を見てしまう。
また同じことをされるのではないかというフィルターをかけてしまって、前に進めなくなってしまう。
もちろんそのときの現実は耐え難いものだった。それを否定するつもりはない。
でもそれは過ぎ去り、過去にしか存在していない。今実際に起こっていないことを恐れてうずくまっているのだ。
過去に傷つけられたことがあっても、次もそうだとは限らない。
嫌な人もたくさんいるけれど、そうでない人もたくさんいる。
もしかしたら現実はもっとずっとやさしいかもしれないし、やはり苦しく辛いかもしれない。
リアルな現実がどうなっているかを確かめるのは、結局外に出るしかない。
外に出れば傷つくかもしれないけれど、実際には存在しないものと闘っている時間をもったいなく感じるのだ。
現実をあるがまま正しく認識することは難しい。
誰しもフィルターを持っていて、それが投影とか価値観ということで、その人を形作るものでもあるからだ。
それでもなるべくフィルターをかけないで、現実をあるがままに認識したい。
可能性があるというだけのネガティブな未来に傷つくのはやめよう。恐れというとらわれを手放して生きていきたい。