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ここではないどこか、死の影が色濃く漂うベクシンスキーの世界
ネットに、死の影が色濃くにじんだ絵がひたすら貼り付けてあるブログを見つけた。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4872375.html
ひところ夢中で見入っていたズジスワフ・ベクシンスキー(1929年-2005年、ポーランドの画家)の絵だった。
少年時代にナチス・ドイツのポーランド侵攻を経験したせいなのか、作品は、死、不安、絶望、退廃、虚無、悲哀、破滅、喪失、滅失、混沌、腐敗、恐怖、終末といった情景に満ちている。
美しくもおぞましい終末世界が広がる。
人というか異形のものに成り果てたかつては人間であったもの、人の残骸や躯のようなモチーフが圧倒的に多い。
彼が描きたかった世界はそこなのだろうが、時折混じる、人型めいた何かが描かれない、茫漠として不安定で美しい建物や風景に惹かれる。
人の残骸は、風景よりずっと能弁で意味深だ。グロテスクで重い。
建物や風景はずっと密やかで多くを語らない。美しく静謐だ。
この地球上のどこにもない世界は、自分の存在が許される場所なのではないかと感じさせる。
この地球で立ち位置がわからないと戸惑っている自分は、間違ってこの場所にいるのではないかという違和感を抱き続けている。
違和感、よるべなさ、生きづらさをいつも心のどこかで感じている。時に小さく、時に大きく。
そんな自分が生きる場所が、ベクシンスキーの絵の中にあるような気がするのだ。
ここではないどこか。
そこに魅せられる自分がいる。
アーノルド・ベックリン(1827年-1901年、スイス出身の画家)の描く『死の島(Isle of the Dead)』に惹かれるように。
ベックリンの『死の島』も、死の気配が色濃く漂う一枚だ。
糸杉の木がそびえ立つ死の島に小舟が近づいている。乗せているのは棺。
世紀末のドイツ、大戦前の死の予感が漂う時代、ドイツ人の多くが『死の島』の魅力に取りつかれ、複製画を買い求めたという。静寂に満ちた死の世界に一種の安らぎを見出したのかもしれない。
ベックリンは、このモチーフを繰り返し描いていて、作品はそれぞれ少しずつ異なっている。
画家になりたくて夢破れたアドルフ・ヒトラーも、この絵を愛し、総統時代の執務室に3作目の『死の島』を飾っていたらしい。
死の幻影にとりつかれているわけではないけれど、ここではないどこかに憧れているのは事実だ。
SFとかファンタジー、宇宙的なものが好きなのも、現実の空間から一時的に切り離されるからだろう。
ただの主観だけど、内向的すぎて生きづらい人たちは、空想の世界に翼を広げることがうまいように思う。
過度に依存するのでなければ、その世界で思い切り遊べばいいと思う。ゲームでも映画でもマンガでも小説でも。
逃避かもしれない。でもそこでは自由に息がつける。
いつか誰かベクシンスキーやベックリンの絵に物語を紡いでくれたらいいのにと思う。
そうしたら、むさぼるように読むだろう。
それは私の物語と地続きかもしれない。

ベクシンスキー (Pan‐exotica)