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過剰な罪悪感を手放して幸せになる

過剰な罪悪感を手放して幸せになる


罪悪感というやっかいな代物にずいぶんと振り回されてきた。

明らかに反社会的な行為をしたときに抱く罪悪感ではなく、日常の細々したシーンで相手の期待に応えられなかったと思うときに浮かぶ罪悪感だ。

こうしなくてはならない、こうしてあげるべき、こうするのが普通、こういう対応をして当たり前というような、 思い込みがまずあって、そこから逸脱したとき浮かんでくるネガティブな感情。

ひとつひとつは小さくても、ボディブローのようにじわじわ効いてくる。

他人の評価が自分の価値基準になっている人間は、過剰な罪悪感を抱きやすい。

例えば忙しい日が続いて、その週の休みはゆっくりしたいと思っていたときに友人に誘われて、体力的にきついので断わったとする。いつも友人の誘いを断っているなら、それはそれで別の問題があるが、実際その一回を断ったところで何の支障もない。
けれど、必要以上に自分を責める気持ちが湧いてきてダメなのだ。罪悪感を感じたくなくて、やっぱり行くことにした挙句後悔して、自分の首を絞めることが多い。誘ってくれた友人にも失礼なことだと思う。

他者に対して自分が価値ある人間ということを、常に証明し続けようとする姿は、悲壮で滑稽ですらある。
そうまでしないと生存が許されないような思いをどこかで抱いているんだと思う。
それも心からそうしたいと思っているわけではなく、実は不満がくすぶっていることも多い。人からもノーと言わない人だからと軽くあしらわれているように感じることもある。

その割には、罪悪感を感じることが当たり前の場面で、その意識が希薄だったりすることも多く、バランスが悪い。
他人との距離の取り方が、上手く測れないことに関係があるように思う。

今抱いている罪悪感が行為に見合う相応のものなのか、まず考える必要があると思う。

最初に罪悪感を抱いたのは、いじめに合った小学生の頃ではないかと思う。
運動が苦手で、クラスメイトに疎んじられ、仲間外れにされるような子供だった私は、母の期待に応えられないことが辛かった。

運動がうまくできなくてごめんなさい。
クラスの人気者になれなくてごめんなさい。
いじめられるような子供でごめんなさい。

親が期待するような子供が、どういう子供なのかはっきりとはわからないのに、見捨てられるような不安感があった。

母が期待する子供ではなく、自分がなりたかった子供になれなかったことが罪なのだ。

このセルフイメージの低さが、生きづらさの根源にある。

自分は価値のない人間、罰せられるべき人間というメッセージを無意識に外に向けて放出しているのだから、そのメッセージに見合う人や状況を引き寄せてしまう。
丁重に扱われるより雑に扱われた方がどこかほっとするのも、自分にはそれが相応しいと思っているからだろう。自己犠牲を敷いて、それを当たり前に受け取る人の方が付き合うのが楽だったりする。

これではいつまで経っても幸せにはなれっこない。

幸せになるために、罪悪感を手放す方法を考える。

罪悪感を解消する方法として、まず思いつくのは、罪悪感を持たないように行動するということだが、自分の場合は、ひたすら他人の欲求を満足させるように動くだけで、結果自分を苦しめているだけなのでこれは除外する。

次に思いつくのは、実際に謝って許してもらうことだろう。相手が許しているのに、自分がこだわる必要はない。

ただ、実際に相手に謝っている場面をイメージすると、謝るほどのことではない行為で思い悩んでいることがかなり多かったりする。
謝っても、相手がごく普通の人なら「えっそんなこと気にしてたの?気にすることないよ」と言われそうなことなのだ。そうやってシミュレーションしてみると、罪悪感を抱くほどのことではなかったことに気づくことができる。

いかに実態のないものと不毛な戦いを続けてきたのだろう。

適正な罪悪感なのか、その正体を見極めて、過剰な罪悪感は流してしまおう。

他人を満足させる為に生きているわけではない。多分求められてもいない。
あの人はノーということもあるんだと認識してもらうだけでいい。ノーと言わなくてはいけないときは、シンプルにノーと言って、自分を縛っている、こうしなくてはいけないという思い込みから自由になるのだ。

そうやって状況によってはノーと言えることが、攻撃的な人につけ込まれないブロックにもなる。

もう過剰な罪悪感は手放すと決めるだけで、状況は少しずつ、あるいは劇的に変っていく。

最近になって、ノーと言わなければならない状況がいくつか出てきた。
正直イエスと言えない苦しみもある。今までなら罪悪感と向き合いたくなくてイエスと言ってきたことも、あえてノーと言うようにしている。
この課題をクリアして、幸せになってもいいという時期がやっとやって来たのだから。

そしてこのブログを読んでいる、過剰な罪悪感に苦しんでいるあなたにも。




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