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過去のいじめ…小学校の頃

学生時代にいじめを受けたことで、人生が変わってしまう人がいる。ここでは過去にいじめに遭った自分の体験について書こうと思う。
過去のいじめがなかったら、人間関係に悩むことなく、もっと屈託なく普通に生きていられたように思う。小学校の頃は、運動ができないことでいじめに遭っていた。中学校の頃は、担任の支配する独特の閉鎖されたクラスになじめず、息苦しい毎日を送った。中学校の殺伐としたクラスが、今の生きにくさの根底にあると思っているので、中学のことは後から書いてみたいと思う。
小学校の頃のいじめは、教科書を破られたり、うわばきがなくなったり、そういうハードなことはなく、ましてや暴力行為があったわけではない。体育で負けた時に罵られたり、同じ班に入れてもらえない程度のものだった。それは今の陰湿ないじめに比べれば牧歌的とも言える行為かもしれないが、確実に人格形成に影を落としている。
席替えは最悪の時間だった。私は極端なスポーツ音痴だった。体育等は班対抗で行うことが多い。今の席替えはくじ引きや先生が決める方法が多いと思うが、3、4年生の時のクラスでは、まず班長を決め、その班長が独断で班員を一人ずつ指名して自分の班を作るという方法を採っていた。当然人気のある子から班が決まっていく。運動もできない、面白くもない私はいつも最後まで残り、辛い思いをした。
「残っている人は、立って下さい」と言われ、立ち上がることの恥ずかしさ。
大抵は、最後の方まで残っても班の人数はおのずと決まっているから、どこかの班に入ることで落ち着くのだが、3年生の頃にどうしても私を入れたくないと頑張った班長がいて、同じクラスの子を何故班に入れないのか、先生が説教を始めたことがあり、そのみじめさにいたたまれない気持ちがした。子供は容赦がない。
結局私は可愛そうな子供として、道徳教育の道具に使われたのだ。先生も子供に人権あるなどど考えることもなかったのではないかと思う。それでクラスはまとまるかもしれないが、道具にされた子供の気持ちはどうなるのだろう。
何故1、2年や5、6年の担任のように、先生と班長が別室で決めることはできなかったのかと思う。面倒だから? 誰が人気者で誰がそうじゃないのかを見極める為? それとも自分自身がどのランクに位置するかを本人に気づかせる為? 人気がない子、いらない子は、人気者になれるよう努力するとでもいうのか。劣等感というコンプレックスをまとって、私は生きることになった。
元々の性格は、引っ込み思案だが我儘で、根はお調子ものだと思う。でも元来のお調子者の性格は、いじめによって阻害されて伸びることができなかった。常にいじめられないように人の顔色を窺うような、そんな子供になり、今もその呪縛は続いている。無意識のうちに自分自身がいじめられても仕方のない存在だと、自分自身が思い込んでしまう呪縛である。
席替えことは家族には言えなかった。母親にみじめな子供だと思われるのが恥ずかしかった。そんなことはなかっただろうが、話せば母親に見捨てられる気がした。小学生なりのプライドもあったのだろう。
社会人になった今でも丁重に扱われるより、ぞんざいに扱われたる方が、どことなくほっとしてしまう自分がいる。丁重に扱われる方が気持ちのよいことのはずなのに、自分が自分にそれを許していないのだと気づく。
自分を大切に扱わない人は、他人を利用することに長けた人や他人を見下す人間を呼び込みがちだ。
他人を見下すことに躊躇のない人間は、自信のない人、自分を大切にしない人を敏感に探り当て、ターゲットにしいじめを開始する。どこかで呪縛を断ち切って、まず誰でもない自分自身が自分を大切にする生き方にシフトしなくてはいけないと思う。