「役に立たないものこそ最も尊い」という価値観が自分の軸になっています

<2016.7.31>
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: セニンラ さん)
(※セニンラさんは以前に「みんなの生きづらさ」に投稿して下さっています。そちらの投稿はこちら「知性の価値が音を立てて崩壊していきました」)
初投稿させていただいてからもう5か月程が経ちました。
ほんの1か月前に異動で別の工場の事務職に転勤となりました。耳からの情報を処理するのが苦手なので、口頭での指示を理解できず(メモを取りますが、後で見返すと意味不明なことが多いです)相変わらず些細なミスを繰り返しています。
最近、「役に立たないものこそ最も尊い」という価値観が自分の軸になっている事に気づきました。
全く存在理由が分からないが確かにそこに存在しているもの。赤瀬川源平氏が「トマソン」と名付けたそれに至上の価値を見出してしまいます。行う全ての全ての事に理由、意味、効率が求められる日常生活の反動かもしれません。
「役に立たないかもしれないこと」も選択肢の一つとして検討できる研究職は私の憧れでした。
大学での研究は諦めてしまいましたがそれでも喉から手が出る程望んでいました。研究職として働く同期、同級生の近況報告を見ていると何とも言えない敗北感に苛まれます。どこで人生を間違えたのか、何が悪かったのか、考え続ける日々。
「”憧れ”とは決して手に入らないものに対するコンプレックス”と同義である」とある人は言いました。
その通りだったのだな、と思うこともあります。
精神安定剤のおかげか刺すような絶望は減りましたが、その代わりに靄のような虚無感に苛まれる事が増えました。
負のエネルギーすら消散してそのうちどこかへ消えていくのでしょう。
残るのは完全な虚無。自分を殺して働き続けるためにはこれが必要なのだと半ば諦めております。