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「空気を読め」という言葉

「空気を読めよ」という言葉が嫌いだ。空気なんか読まなくていいと思う。
「空気を読め」という言葉に続く言葉は、「雰囲気を察して周りに合わせろよ」と的なことだと思う。そこには「同調しろよ。同調しない奴は、排除されても仕方ないんだよ」というメッセージが暗に込められているような気がして、ぞっとするのだ。
場の空気を過剰に読んだ結果、ここでのこの発言は適切なものか、探りながら会話をするようになる。
これは通った。じゃこれは?
これは通らないようだから、引っ込めて。
コミュニケーションスキルの低い、協調性のない人間には、ひどく難しいことだ。
そういう会話を続けて続けていると、言いたいことが言えなくなる。当たり障りのない言葉しか出なくなって、当然会話も楽しいものではなくなってしまう。
他人に迷惑がかかるような行動ならいざしらず、誰の迷惑にもならない、多少場違いな会話や行動は、それほど批判されなければならないことだろうか。
多少異質なものに寛容にはなれないのだろうか。
そんな風に空虚な努力を重ねても、結局みんなから好かれるのは、空気なんか読まない、堂々と自分の意見を言える人だったりする。
意見は違ったとしても、自分がある人に、人は一目を置く。
そして、その場の雰囲気を察して、その場にふさわしい発言や行動をするということは、集団の場が変われば、取るべき発言や行動も変わるということだ。
別の集団では別の空気を読むことが求められる。
そこでも逸脱しないないよう、別の仮面をかぶって別の自分を演じる。
自分はどこにもない。
とても疲れることだ。
場が求める会話は行動は、普遍的なものではない。
場所が変われば空気も変わる。
そんな実態のよくわからないものに振り回されている。
空気を読む能力は人それぞれだから、簡単にできる人もいるし、そうでない人もいる。
空気を読むことを強要してほしくない。
空気を読むことが絶対のような風潮が、生きづらさを助長させているような気がするのだ。