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私にしか見えないあの子…イマジナリーフレンドという存在
イマジナリーフレンド、「想像上の友人」「自分にしか見えない友達」のことだ。略してIF、イマジナリーコンパニオンとも呼ばれる。
子供の頃、この私しか見えない友達によく遊んでもらっていた。
一番頻繁に表れていたのは小学校3年生位から4、5年生までだったような気がする。
私の頭の中にしかいない友達のことを長年何と呼ぶのか知らなかったが、ちょっとした偶然からイマジナリーフレンドという言葉があることを知った。
イマジナリーフレンドを持つ人は、一人っ子が多いそうだが、そう私も一人っ子だ。
両親も共働きで日中はいなかったので、イマジナリーフレンドを持つには最適の環境だったと思う。
習い事の帰り道などには、いつも二人でたわいもないことを話しながら帰っていた。
活発なショートカットの私より少し背の高い女の子だった。私とは正反対のエネルギッシュな溌剌とした子。
頻繁に呼びかけていたのだから、名前もあったと思うのだが、もう思い出せない。
『となりのトトロ』でメイとサツキが出会うトトロやネコバスもイマジナリーフレンドだと思うが、トトロやネコバスと同じように、「空を飛べる」そんな属性も兼ね備えていた。
一緒に空と飛ぶところを夢想したりもした。
友達がいなかったわけではないけれど、私の戯言をすべて受け入れてくれるような度量の大きい友達がいるはずもなく、悲しいときや苦しいとき、その子に傍にいてもらうことでずいぶん助けられたものだった。
欧米などではイマジナリーフレンドを持つことは、どの子どもに起こりうる普通の現象としてとらえられていて、むしろ子供の発達にとって大切な役割を果たすものとも考えられているらしい。
私がその友達を得たのは結構大きくなってからのことで、もう少し小さいうちに出会うのが一般的なのかもしれない。
何故幼児期ではなく、小学校の中学年からだったのかというと、多分私が意図的に創り出した友達だったからではないかと思う。
当時『赤毛のアン』が好きでよく読んでいた。
『赤毛のアン』の中にアン・シャーリーがガラス戸に映る自分の姿にケティ・モーリスという名前をつけて遊んでいたというエピソードが出てくる。
もう記憶もおぼろげだけど、多分アンをまねて、ごっこ遊びの延長のような形でその友達を得たような気がするのだ。
それ以前にもイマジナリーフレンドの萌芽があったようにも思うのだが、かなりはっきり人格というかキャラクターができたのは、この小学校3年生の頃だったと思う。
その頃の自分に必要な存在を自分で創り上げたような気がする。
孤独だと意識したことはなかったけれど、今考えれば何ほどかの寂しさを抱えていたのかもしれない。
この友達がいつの間にか消え、変わりに厳格な声が私のやることにいちいち文句をつけるようになったのは、私にとって不幸なことだった。
声の主は、何の魅力も人格も持たないただのスーパーエゴだ。道徳的でルールばかり重んじる誰か。
なくてはならないものかもしれないけれど行き過ぎると人を縛って辛くする。
だいたいの子供は大人になると、イマジナリーフレンドの存在を忘れてしまうものらしい。
これが暴走して抑制が効かなくなると、自分の中にいくつもの人格が現れる解離性同一性障害に移行する場合があるのか、それとは明確に区別されるものなのかは私にはよくわからない。
でも病的でなければ、大人になっても、イマジナリーフレンドを持っていてもいいような気がする。
あの子がいなくなってしまったことを寂しく思う。