「成長しなければいけない」という価値観がとても辛い
(※コルグさんは以前に「みんなの生きづらさ」に投稿して下さっています。そちらの投稿はこちら「生きづらさとは「ある特定の人たち」だけのものではない」、「「普通」という言葉は、時にとてつもない暴力として襲い掛かってくる」、「そもそもその人がほしいのは「自分ではない他者からの承認」なのだ」「恋愛弱者の自分」)
<2018.10.28>
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: コルグ さん)
「成長しなければいけない」という価値観がとても辛い
もちろん自分自身も昨日より今日の自分が前に進めるように
振舞い方を変えたり、スキルを伸ばしてきた
先に進むことが大切」という価値観を否定はできない
しかし、それでも未だに人並にはなれないままだった
弱音を吐くと今度は「甘え」「努力不足」「自己満足」と言われる
なんでみんな頑張れるんだろうか。辛いことや悲しいことがあっても
それでも「自分自身を成長させなきゃ」と思えるんだろうか
心が落ち着いて平静な時ならそれは正しいが、傷ついたときでもなお
「成長」を優先させなければならないのだろうか
幸せを幸せと思えないまま時間だけが過ぎていく
<2018.4.26>
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: コルグ さん)
楽しい経験をしても、一緒にいて幸せな人がいてくれても
自分自身がそれを恐れている部分がある。
幸せを幸せと思えないまま時間だけが過ぎていく。
楽しい時が終わるのではないか、見捨てられるのではないかと。
もっと自分自身を楽にしたいと常に思う。
自分が不幸だと感じると、他者がより一層眩しく見えてしまう
<2017.11.9>
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: コルグ さん)
自分が不幸だと感じると、他者がより一層眩しく見えてしまう
あの人は自分より高いステージにいるのに、それに比べて自分は、等。
現状に不満を抱いているのであれば、努力することはもちろん大切だ。
しかし、自分が頑張ったところで理想のステージには届かない、上には行けないという妬みや虚しさが自分の足を止めてしまう。
「ある方面で得た頑張り・価値」が、「多方面への自信」にはならない
<2016.10.9>
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: コルグ さん)
何であれ自信を持つことはいいことである。
何かに向かってがむしゃらに頑張ることはとても大事である。
これらは確かに正論であると思う。
自分自身、数年がかりで継続してきた趣味が、少しずつ誇れるようになってきた。それで人間関係も広がるようになり、少し自分を認めることもできたように思う。
しかし、これだけで対人関係への恐怖が拭えたことは一度もない。
自分が下に見られるのでは、自分が見捨てられるのでは、そのようなつまらないプライドを捨てることができない。
つまり、「ある方面で得た頑張り・価値」が、そのまま「多方面への自信」にはならない。
それらは汎用性のあるものではないように思う。
それだけで、今の自分を抱えるあらゆる問題がすべて解決するわけではない。
「その人の人生そのもの」を決断することを、安直に決めてしまってよいのか
(「みんなの生きづらさ」/投稿者: コルグ さん)
「生きづらい」というテーマ一つにも、常に二択が存在するように思う。
かなりアバウトに言えば「今の仕事を続けるか、仕事を辞め転職するか」「安全な日本で過ごすか、自由な海外で過ごすか」など。
これらは一例だが、「どちらかの選択をするしかない」といったことは世の中に多くあるだろう。
世の中にあふれているアドバイスや啓発の多くは「どちらか一方に属すること」を前提としているものである。そのため、「その中間で揺らいでいる人たち」にとっては、非常に厳しいものがある。
「リスクを取ろうともしない」「現状に甘んじているだけで何もしない」など、双方から非難の声が飛んでくる。お前の立場を表明しろと脅迫され、中間で悩むことさえ許されない。
確かに、考えて悩んでばかりいるより、何らかの決断を下し、行動した方が良い。それを否定するつもりはない。
しかし、「その人の人生そのもの」を決断することを、安直に決めてしまってよいものだろうか。他人からの脅迫めいた文言で、自分の意思もないまま決めてしまってよいのだろうか。
無責任な叱責や同情で人ひとりの人生をこれ以上捻じ曲げないようにと強く申し上げたい。