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「ある方面で得た頑張り・価値」が、「多方面への自信」にはならない

「その人の人生そのもの」を決断することを、安直に決めてしまってよいのか

<2016.10.9>

(「みんなの生きづらさ」/投稿者: コルグ さん)

(※コルグさんは以前に「みんなの生きづらさ」に投稿して下さっています。そちらの投稿はこちら「生きづらさとは「ある特定の人たち」だけのものではない」、「「普通」という言葉は、時にとてつもない暴力として襲い掛かってくる」、「そもそもその人がほしいのは「自分ではない他者からの承認」なのだ」「恋愛弱者の自分」)

何であれ自信を持つことはいいことである。
何かに向かってがむしゃらに頑張ることはとても大事である。

これらは確かに正論であると思う。
自分自身、数年がかりで継続してきた趣味が、少しずつ誇れるようになってきた。それで人間関係も広がるようになり、少し自分を認めることもできたように思う。

しかし、これだけで対人関係への恐怖が拭えたことは一度もない。
自分が下に見られるのでは、自分が見捨てられるのでは、そのようなつまらないプライドを捨てることができない。
つまり、「ある方面で得た頑張り・価値」が、そのまま「多方面への自信」にはならない。

それらは汎用性のあるものではないように思う。
それだけで、今の自分を抱えるあらゆる問題がすべて解決するわけではない。




「その人の人生そのもの」を決断することを、安直に決めてしまってよいのか

「生きづらい」というテーマ一つにも、常に二択が存在するように思う。
かなりアバウトに言えば「今の仕事を続けるか、仕事を辞め転職するか」「安全な日本で過ごすか、自由な海外で過ごすか」など。
これらは一例だが、「どちらかの選択をするしかない」といったことは世の中に多くあるだろう。

世の中にあふれているアドバイスや啓発の多くは「どちらか一方に属すること」を前提としているものである。そのため、「その中間で揺らいでいる人たち」にとっては、非常に厳しいものがある。
「リスクを取ろうともしない」「現状に甘んじているだけで何もしない」など、双方から非難の声が飛んでくる。お前の立場を表明しろと脅迫され、中間で悩むことさえ許されない。
確かに、考えて悩んでばかりいるより、何らかの決断を下し、行動した方が良い。それを否定するつもりはない。

しかし、「その人の人生そのもの」を決断することを、安直に決めてしまってよいものだろうか。他人からの脅迫めいた文言で、自分の意思もないまま決めてしまってよいのだろうか。
無責任な叱責や同情で人ひとりの人生をこれ以上捻じ曲げないようにと強く申し上げたい。




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